高野長英
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故郷水沢での長英
岩手県奥州市水沢(旧・水沢市)では、長英は三偉人(高野長英・後藤新平・斎藤実)の一人として扱われている。また、小学校では良く総合的な学習の時間で取り上げられ、その生涯・功績を学んでいる。また、平成16年(2004年)には高野長英の生誕200年ということで、水沢では色々なイベントが行われた。
1971年(昭和46年)に岩手県奥州市水沢中上野町に奥州市立高野長英記念館が設立された[12]。
著作文献
- 『高野長英全集』(全6巻) 第一書房、1978年 - 1982年。順に「医書1」「医書2」「兵書」「雑書」「砲家必読」「蘭文」。
- 『華山・長英論集』岩波書店〈岩波文庫〉、1978年8月16日。ISBN 4003302516。佐藤昌介校注。
- 『日本の名著25 高野長英ほか』 佐藤昌介責任編集、中央公論社、現代語訳。
伝記
注釈
- ^ 間もなく豊後国日田(現・大分県日田市)の広瀬淡窓に弟子入りしたという(異説もある)。[要出典]
- ^ わが国で初めて、ピタゴラスからガリレオ・ガリレイ、近代のジョン・ロック、ヴォルフに至る西洋哲学史を要約した。[要出典]
- ^ 奉行所に自ら出頭したという説もある。(論集 1978, p. 371)
- ^ 火災時には避難目的での一時釈放が制度化されていた。三日以内に戻って来れば罪一等減じるが戻って来なければ死罪に処すと言い渡された。石出帯刀も参照。
- ^ 何人もの捕方に十手で殴打され、縄をかけられた時には既に半死半生だったため、やむを得ず駕籠で護送する最中に絶命したという説もある(現場にいたある捕手役人の覚書による)。しかし、奉行所に提出された報告書によれば、長英は短刀を振るって奮戦した後、喉を突いて自害したとある。当時の奉行所としては、正式な取り調べもせずに容疑者を死亡させた不祥事を隠蔽する目的で虚偽の報告書を作成させた可能性も否定はできない。[要出典]
出典
- ^ 論集 1978, p. 364.
- ^ 論集 1978, p. 365.
- ^ a b c 論集 1978, p. 366
- ^ a b 論集 1978, p. 367
- ^ a b 論集 1978, p. 368
- ^ “二物考(勧農備荒二物考)”. 奥州市高野長英記念館. 2024年1月22日閲覧。
- ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日) 2020年12月2日閲覧。
- ^ a b 論集 1978, p. 372
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』角川書店、1980年7月8日、182頁。ISBN 4040011104。
- ^ 旧高野家離座敷 さいたま市
- ^ 「海舟全集 第十巻」
- ^ 高野長英記念館 、2020年3月30日閲覧。
- 1 高野長英とは
- 2 高野長英の概要
- 3 故郷水沢での長英
- 4 高野長英が登場する作品
高野長英と同じ種類の言葉
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