青山・土器山の戦い
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開戦前の状況
赤松宗家と龍野赤松氏の対立
永禄元年(1558年)、浦上政宗などに擁立された赤松義祐は父赤松晴政から赤松氏の家督と置塩城を政争によって奪い、父晴政を追放したがこの晴政を匿ったのが晴政の娘婿である龍野城主赤松政秀であった。
これ以後、義祐の治める赤松宗家と晴政を擁する龍野赤松氏は対立するが、永禄8年(1565年)に晴政が死亡すると一旦は赤松宗家と龍野赤松氏は和睦する。しかしながら和睦成立後も赤松政秀は独断での利神城攻撃など宗家を意に介さない行動を取り続けた。
両赤松家対立の再燃
永禄10年(1567年)8月、赤松政秀に足利義昭からの使者が訪れる。当時、松永久秀などに京を追われていた義昭は全国の諸侯に後援を求める檄を飛ばしており、政秀の元にも要請が来たのである。以後、政秀は義昭と誼を通じる。
翌永禄11年(1568年)に足利義昭は織田信長の支援を背景に上洛を果たし、征夷大将軍となり室町幕府第15代将軍に就任する。政秀は将軍義昭と更に結び付きを深めるべく、自身の娘を義昭付きの侍女として側仕えさせようと京へと向かわせた。
政秀が将軍と懇意になることで播磨の守護職を簒奪しようとする事を危惧した義祐は家臣の御着城主小寺政職に命じて上洛途上の政秀の娘の身柄を拘束させると同時に備前の浦上宗景に龍野攻めを要請し、浦上との挟撃で政秀を討ち果たさんとした。浦上宗景はこれを受けて義祐の要請という大義名分を得ての播磨侵攻を行い、9月には備前・美作から集めた兵を率いて政秀の領地に踏み込んだ。
織田家介入
永禄12年(1569年)2月、政秀の娘は無事京に辿り着いたが、浦上の攻勢は止まず、たまりかねた赤松政秀は足利義昭に救援を求め、これを受けた義昭は織田信長に播磨出兵を促した。信長は池田勝正ら摂津国衆を中心とした軍団を派遣し、これに東播磨の別所安治・別所重宗・明石祐行が加わった軍団が播磨の義祐領に攻め込んだ。時を同じくして備前では宇喜多直家が浦上宗景に対して謀反を起こし、これにより浦上軍は備前へと急ぎ兵を返した。
一転して優勢に立った政秀は義祐に従った小寺政職の御着城の支城の一つで黒田職隆・孝高親子の守る姫路城の攻略を目指して兵を動かす。こうして一連の動乱は織田・別所・龍野赤松・宇喜多連合と赤松宗家・浦上・小寺連合の争いの様相を呈する形となった。
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