青山・土器山の戦い 開戦

青山・土器山の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 23:03 UTC 版)

開戦

青山の戦い

永禄12年(1569年)5月、赤松政秀は3,000の兵を率いて出陣する。黒田軍は主君小寺政職が殆どの兵を置塩城に入れて義祐とともに篭ってしまったため、動員できたのは300人程度であった。黒田軍は当時は現在のような大城郭ではなかった姫路城での籠城を諦めて野戦を仕掛けた。

黒田孝高は軍を率いて姫路城の西の青山(現:兵庫県姫路市青山)の地に兵を伏すと、姫路を攻めようとした赤松軍を奇襲して撤退させることに成功した。 なお金子堅太郎著『黒田如水伝』(大正5年)では赤松軍が5月と6月に2度攻めてきたとする。『小寺政職家中記』には8月9日とある。

土器山の戦い

同年6月に3,000の兵を率いた赤松政秀は小丸山に布陣し、対する黒田軍は夢前川東岸にある土器山(現・瓦山。一説に現・船越山)に陣を張った。戦闘があったのは裾野の土器坂である。

戦闘は赤松軍の土器山の黒田軍への夜襲に始まった。兵150の孝高は叔父(職隆の実弟)の井手友氏母里小兵衛などの有力な武将を失い窮地に陥ったが、夜が明けると英賀城主の三木通秋が率いる280の兵が南から赤松軍を攻撃、さらに姫路から職隆が出撃して赤松軍の後背を突いたことで救われた。赤松軍は優勢を保ったまま昼には小丸山の陣に兵を収めた。 黒田軍の被害は甚大であったが、孝高は対陣が長引けば勝ち目はないと判断し攻勢に出る。先の戦いで体の7箇所に怪我を負った幼い頃からの官兵衛の家臣である母里武兵衛(小兵衛の子)は「これ程の傷を負った者に出撃せよとは死ねということか」と反駁したが、孝高は「恐らくはそうなるだろう」とだけ言葉を返したという。

黒田軍は孝高が先鋒、職隆が殿という布陣で同夜に小丸山の赤松軍を強襲した。昼までの戦闘での戦果から黒田軍の反撃を予想していなかった赤松軍はこの夜襲をうけて混乱し敗走した。 敗走した赤松軍のうち衛藤忠家・島津蔵人と4人の弟が笹峠(現・山田峠)で討死した(衛藤家の系図には現地に塚(墓)があると書かれているが現在は確認できない)。

黒田勢は敗走する赤松勢を追撃し、夢前川から龍野城の中間あたりの太子町あたりまで追いかけて数百人を討ち取ったが、黒田勢の損害も死傷者287人という惨憺たる状況であったため、それ以上の追撃も断念。母里武兵衛も重傷の身を押して先頭を切って赤松軍に斬りかかったとされ、奮戦の末に7本の槍に貫かれ壮絶な死を遂げたという(『小寺政職家中記』)。この戦で母里一族は24人もの戦死者を出し、後を継ぐものが居なくなってしまったが、功績のある母里家が絶えるのを惜しんだ孝高は曽我一信と母里氏の女との間の子に母里姓を与え名籍を継がせた。これが母里友信(太兵衛)である。







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