青山・土器山の戦い 他勢力の戦況

青山・土器山の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 23:03 UTC 版)

他勢力の戦況

浦上と宇喜多

領内から浦上の代官を追い出し敵対姿勢をあらわにした宇喜多直家であったが、浦上軍と単独で戦うことはせず、大友宗麟との戦いで九州戦線に釘付けの毛利の隙をついて香川広景の守る美作高田城に家臣たちを派兵し、旧領の高田城回復を志す三浦貞広と合力し攻撃させていた。しかしながら備前に浦上という敵がいる中での戦いに宇喜多勢の士気は乏しく、すぐに攻略を諦め撤兵した。また浦上も織田・別所・龍野赤松らの動向を見極めねばならず宇喜多を攻められずにいた。

こうして睨み合いの状況がしばらく続いたが、青山・土器山の戦いでの赤松政秀の敗退と織田・別所軍の撤退(理由は下記参照)を知った浦上宗景は宇喜多に注意を払う一方で、今回の動乱の発端となった赤松政秀を討つべく龍野赤松氏の領土へと攻め込んだ。先の敗戦と織田軍の撤退で勝ち目がないと悟った赤松政秀は永禄12年(1569年)11月には降服し、浦上家は龍野城を手中に収めた。またほぼ時を同じくして宇喜多直家も浦上に降服し反省の意を示したが、宗景はこれを赦している。大友家臣の吉弘鑑理が対陣中の立花山城乃美宗勝に宛てた手紙によれば尼子勝久と浦上宗景合議の上での決定であったという。

赤松と織田・別所

一方で政秀救援の為の池田勝正や別所安治の軍は大塩城・庄山城・高砂城ら義祐領の城を次々と陥落させると、奪った庄山城を本陣として置塩城・御着城を脅かしたが、義祐救援に三好義継配下の篠原長房が参陣するなどの話が挙がり、義祐は籠城を選び持久戦に出る。ここで幸運だったのが三好が健在なことからも分かるように、信長がこの時点では畿内に安定政権を築いていたとは言えない段階だったことで、何らかの事情で兵が必要になった織田軍は同年9月には池田ら摂津衆を畿内に呼び戻し、別所安治らもこれに伴い兵を退いた。

義祐は織田軍が退くとすぐに信長に謝して恭順の意を示すと共に、織田に服した事を行動で表すべく息子の赤松則房を龍野城攻略中の浦上宗景と対峙させた。ただ、浦上は義祐救援の大義名分の元に出兵しているので則房に攻撃は仕掛けず、また則房側としても織田に付いたとはいえ龍野城を救援することに全く利はなく、ただ動静を見守るだけであった。[要出典]

11月には織田家から池田勝正・和田惟政伊丹忠親が送られ、龍野城を救援しようとしたが同月に政秀が浦上に屈したため、殆ど何もせずに畿内へと帰還。則房もこれを見届けると置塩城へと帰還した。







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