金上氏 概要

金上氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/09 14:24 UTC 版)

概要

戦国時代以前(会津・越後)

会津を領していた三浦氏庶流佐原盛連の三男・盛義が、河沼郡藤倉(現:会津若松市河東町倉橋字藤倉)に居を構えて藤倉氏を称し、盛義の孫・盛弘が河沼郡金上(現:会津坂下町金上)に居を移して金上氏を称した。盛弘はさらに阿賀野川を下って越後国小川荘(現:新潟県東蒲原郡阿賀町一帯)に進出し、建長4年(1252年)に津川城を築いた。会津の三浦一族の惣領となったのは盛義の弟・光盛の興した蘆名氏で、金上氏はその重臣として津川城と金上館を拠点に阿賀野川上流域を支配した。

歴代当主中最も有名な戦国時代の第15代当主・盛備は、その卓越した政治手腕から「蘆名の執権」と称された。盛備は蘆名盛氏による蘆名氏の全盛期とその後の当主交代が相次いだ混乱・衰亡期を支え、伊達輝宗と共に御館の乱新発田重家の乱に介入して越後の上杉景勝と戦った。

盛備は天正17年(1589年)6月5日の摺上原の戦い伊達政宗に敗れて討死し、居城・津川城を守っていた嫡男の盛実も、この敗戦により佐竹氏から養子に入っていた蘆名義広が実家に逃れ、蘆名氏が滅亡したことで孤立無援の状態に陥り、9月28日に政宗に降伏した。この時、津川城と越後国内の所領は没収され、安堵されたのは本貫の会津金上300石のみであったが、翌天正18年(1590年)の奥州仕置によって政宗が旧蘆名領を没収されたために、盛実はその本貫の地すらも失い会津を去った。盛実の弟四人のうち、三男の備秀は盛実と同様に会津を去って石川昭光に仕えたが、他の三人は会津に残留し土着した。この会津に残った家系の末裔に佐原盛純がいる。

なお奥州仕置の際に、越後国内の金上氏旧領は、越後を支配する上杉景勝にではなく、新たに会津に入部した蒲生氏郷に与えられ、その後上杉・蒲生・加藤・松平(保科)と会津の領主が交代していく中でも一貫して会津藩領であり続けた。江戸時代が終わり明治時代に入っても、蒲原郡の他地域が明治4年(1871年)までにはすべて新潟県の管轄下に入ったのに対して、金上氏旧領部分はそのほとんどが福島県蒲原郡(のち東蒲原郡に改称)とされ、明治19年(1886年)になってようやく新潟県へと編入された。

江戸時代以後(仙台)

奥州仕置の際に政宗に従って会津を去った盛実は準一家の家格を与えられ、宮城郡菅谷(現:利府町菅谷)で120石を領したが、盛実の子・勘三郎は、薄給のため相応の格式を保てないとして、家格を返上して平士(虎間番士)に降格した。さらに勘三郎には実子がおらず、吉川氏から養子(又兵衛)を迎えたため、蘆名との血縁が無くなってしまうなど、苦難続きであった。

しかし、又兵衛は新田開発によって知行高を300石にまで伸ばし、又兵衛の曾孫・盛良が伊達吉村の近習に抜擢されて若年寄まで昇進したことで、享保13年12月(1729年1月)に金上氏は召出の家格を与えられ、門閥に復帰した。また盛良の実子が早世するか他家に養子に出ていたため、準一家・蘆名氏(もとは庶流針生氏延宝4年(1676年)改姓)から盛広を婿に迎えたことで、蘆名との血縁が復活した。


  1. ^ a b 太田 1934, p. 1588.


「金上氏」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「金上氏」の関連用語

金上氏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



金上氏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの金上氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS