野獣死すべし (1980年の映画) スタッフ

野獣死すべし (1980年の映画)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/19 05:57 UTC 版)

スタッフ

製作

脚本家選定

製作者の角川春樹は、映画プロデューサーの黒澤満の推薦で丸山昇一を紹介され、彼が脚本を担当した『処刑遊戯』を鑑賞して面白さを感じ、後日、角川書店の忘年会に出席した丸山に、本作の脚本を依頼した。「欲しいのは『野獣死すべし』というタイトルと伊達邦彦の生き様だ。それさえあれば、後はどんなふうに変えたって構わない。その代わりお前が作家でいろよ」と丸山に念押しして、脚本が上がるまで口は出さないつもりでいた角川だったが、丸山は執筆前にプレゼンに訪れ、原作の内容を、ほぼ使わない方針を打ち出した。「これが1980年の伊達邦彦です」と丸山に説明され、角川は熟考の末に了承する[3]

原作の解釈、脚本、キャスティング

原作の大藪が伊達邦彦を野性的なタフガイとして位置付けていた(大藪は『野獣』シリーズ以外の作品にも伊達を登場させているが、その人物像は終始一貫している)のに対し、脚本を担当した丸山昇一は、伊達をつかみどころがなく陰湿な不気味さを持った人物(作中で室田日出男演じる刑事・柏木は伊達を「まるで死人のよう」と形容している)として描いた。これは丸山が、時代の様相が原作が書かれた時期とは大きく異なっていた事を鑑み、当時の若者達から感じ取った印象に基づいてキャラクター造形をしたものであったが、丸山はこの描写について大藪から批判された、とのちに語っている[要出典]

主演の松田優作は、クランクイン前に「役作りのために少し時間が欲しい」として、しばらくの間スタッフと音信を絶っている。その間に松田は10キログラム以上減量し(計量してみたところ62キログラムまで落ちていた)、更に頬がこけて見えるようにと上下4本の奥歯を抜いたという[4]。これらの徹底した役作りによって、松田は顔面蒼白の幽鬼のような存在感を漂わせる伊達像を造形した。

真田徹夫役の候補には当初、金子正次が挙がっていた。

撮影

  • 銀行のシーンは野村證券本社社屋で、ラストシーンは日比谷公会堂でそれぞれ撮影された。
  • 劇中のクラシック音楽について。
  • 劇中に登場する銃について。
    • 伊達が所持するコルト・シングル・アクション・アーミーは、本作品のテクニカル・アドバイザーを務め、出演もしたトビー門口の私物のモデルガンである。ただし、グリップは19世紀末に実銃用に作られたアンティーク品で、非常に希少価値が高いものだという。当時の映画雑誌の記事によれば、劇中で印象的に描写されるグリップの裏側に彫られた隠し文字や、中に入っている異物(人間の歯だといわれている)も、入手した際には既にあったものと解説されている。
    • 伊達が闇ブローカーから入手する拳銃はコルト・ウッズマン。22口径でサイレンサーを特注した設定になっている。
  • 劇中に登場する列車について。
    • 伊達と真田が逃走に使用する列車は1980年当時の夜行急行「八甲田」。
    • 伊達と真田が停車中の列車に乗り込むシーンのカットはナロネ21形客車A寝台)であるが、車内に切り替わって以降のカットはボックスシート普通車である。さらに走行場面は近郊形電車を撮ったものであり、つり革を持って立っている乗客が見える。

宣伝

キャッチコピーは、「青春は屍をこえて」。

興行成績・評価

プロデューサーの角川春樹によれば、『野獣死すべし』『ニッポン警視庁の恥といわれた二人 刑事珍道中』の2本立ては利益が1億円に満たない興行成績で終了した[5]

本作の場面描写には抽象的な点が多く、特にラストシーンは日本映画の中で最も難解なシーンのひとつとされている。解釈には「待ち伏せていた警官隊により狙撃され死亡した」「伊達の狂気が生み出した幻影」「突発的にフラッシュバックを起こし、錯乱した」など諸説あるが、公式に明示された例はないため、結論は得られていない。

この印象的なラストシーンは、脚本のラストから大きく変えられており、撮影の途中で、主演の松田たちが自分のやりたいように改変した結果であるという。この件について、映画監督の大島渚は評価し、原作者の大藪春彦は何も言わなかったが、「客が納得して帰るのが娯楽映画」と自負する製作者の角川は激怒し、渋谷東映での初日の舞台挨拶が終わったら、主演の松田を拉致して、渋谷のガード下に連行するよう、角川書店の武闘派社員2人に命じていた。ところが劇場内が客で満員だったとの報告を聞いて矛を収め、未遂に終わった。また本作の初号試写を鑑賞後、共同製作した東映の営業部長・鈴木常承は「劇場に渡した脚本の結末と違う。1日の上映回数が少なくなる」と上映時間の20分短縮を要求し、これに角川が同意したことから、監督の村川透は角川と袂を分かつことになった[6]


注釈

  1. ^ キネマ旬報1981年2月下旬号では配給収入7.5億円となっている[2]

出典

  1. ^ 中川右介「資料編 角川映画作品データ 1976-1993」『角川映画 1976‐1986 日本を変えた10年』角川マガジンズ、2014年、281頁。ISBN 4-047-31905-8 
  2. ^ 「1980年邦画四社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報1981年昭和56年)2月下旬号、キネマ旬報社、1981年、118頁。 
  3. ^ 『最後の角川春樹』、2021年11月発行、伊藤彰彦、毎日新聞出版、P149~150
  4. ^ 『昭和55年 写真生活』(2017年、ダイアプレス)p38
  5. ^ 角川春樹「§7 エクスカリバー」『試写室の椅子』角川書店、1985年9月10日、58頁。ISBN 4048831895 
  6. ^ 『最後の角川春樹』、2021年11月発行、伊藤彰彦、毎日新聞出版、P151~152


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