護良親王
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護良親王 | |
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続柄 | 後醍醐天皇第三皇子(一宮説もある)[注釈 1] |
全名 | 護良(もりよし) |
称号 | 大塔宮[3] |
身位 | 親王 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
延慶元年(1308年)[1][注釈 2] |
死去 |
建武2年7月23日(1335年8月12日) |
配偶者 | 正室(親王妃):北畠親房女 |
南方(藤原保藤女) | |
源師茂女 | |
子女 | 興良親王、陸良親王 |
父親 | 後醍醐天皇 |
母親 | 民部卿三位(北畠師親女の資子 |
役職 |
天台座主 征夷大将軍 二品 |
サイン |
元弘の乱で鎌倉幕府を打倒することに主たる功績を挙げ、建武の新政では征夷大将軍に補任。しかし足利尊氏[注釈 4]を疎む護良は、武士を好み彼を寵愛した父とはすれ違いが多く、将軍を解任され、やがて政治的地位も失脚、鎌倉に幽閉される。のち、中先代の乱の混乱の中で、足利直義の命を受けた淵辺義博によって殺害された。鎌倉宮の主祭神。
注釈
- ^ a b 通説では、護良親王は尊良親王と世良親王の異母弟であり、後醍醐天皇の第三皇子だったとされる[1]。しかし、一宮(第一皇子)だったとする異説もあり、中岡清一『大塔宮之吉野城』や新井孝重はこちらを支持している[2]。亀田俊和は判断を留保している[1]。
- ^ a b 『天台座主記』に、嘉暦2年(1327年)に数え20歳で天台座主(比叡山延暦寺の長)となったと記録されていることからの逆算[1]。
- ^ 呼称については、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。
- ^ 尊氏と名乗ったのは元弘3年(1333年)8月5日以降で、それまでの名は高氏だが、本項では尊氏で統一する。
- ^ なお、柳原紀光は『続史愚抄』の中で後醍醐天皇が即位した文保2年2月26日に尊雲法親王が入室したと記しているが、これは後伏見上皇の子尊胤法親王の入室記事の誤りと考えられている。
- ^ 『太平記 巻第一』民部卿第三位殿ノ御腹也。御幼稚ノ時ヨリ利根聡明ニ御座セシカバ、君(帝)御位ヲバ……関東ノ計トシテ叡虜ニテ任務ヲレザリシカバ、御元服ノ義ヲ改、ラレ梨本ノ門跡ニ御入室有リテ……一ヲ聞イテ十ヲ悟ル御器量、世二叉類モ無リシカバ……
- ^ 『十津川村史』には、竹原八郎が護良親王をかくまった仮御所「黒木御所」の跡が記されていたが、明治22年の大水害で、黒木御所跡や竹原八郎の屋敷「今の花知神社」五輪塔(三重県熊野市神川町花知)などが消失した。
- ^ 「吉野ノ大衆ヲ□ハセ給テ、安善宝塔ヲ城郭ニ構ヘ……吉野ノ河ヲ前二当、三千余騎ヲ随テ盾篭」
- ^ 『太平記』含め、佐々木導誉がこれに直接関与したとする同時代史料はないが、足利尊氏と導誉との間に密約があり、また近江国番場が導誉の所領だったと記す後世の佐々木氏関連史料から、導誉の関与を想定する森茂暁の意見がある[7]。
- ^ 『太平記』「大塔宮志貴の毘沙門堂に御座有と、、、畿内・近国の勢は不及申、京中・遠国、、、人より先にと馳参ける、、、、夥し。」
- ^ ただし、陸奥将軍府の設置を後醍醐天皇の意図とする伊藤喜良の説もある。
- ^ 「二階堂ノ土ノ隴ヲ塗テゾ置造……」
- ^ その後、淵辺義博は北条時行軍に飛び込み討たれたと描写される。
出典
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