西晋 歴史

西晋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/28 02:11 UTC 版)

歴史

司馬氏の台頭

晋の基礎を築いた司馬懿

司馬氏は河内郡の名族での滅亡後に項羽劉邦と共に活躍した殷王司馬卬の子孫を称し、後漢時代には既に歴代の郡の長官を輩出していた[1]司馬防は後漢末期の争乱から台頭した曹操に接近して関係を持ち[1]、その長男の司馬朗は曹操の重臣として仕えた。司馬防の次男の司馬懿208年赤壁の戦いが発生した年から曹操に仕え、曹操の参謀、そしてその嫡子の曹丕の世話役として曹操の丞相府で地位を確立していく[1]220年に曹操が死去すると司馬懿は丞相府の司馬としてその葬儀を取り仕切り、曹丕を後漢の丞相・魏王に、そして魏皇帝に上り詰めさせる過程で大きな役割を果たしたことから[1]、曹丕(文帝)の信任を得た[2]226年に文帝曹丕が崩御する直前には、皇太子曹叡(明帝)の後事を託される[2]

曹丕の崩御で政情に不安を抱いた孟達諸葛亮から帰順を勧める使者が遣わされて孟達が魏に反逆した際、司馬懿は鮮やかな戦略でこれを鎮圧して蜀の北進を防いだ[2]。やがて魏の軍事最高責任者として諸葛亮の率いる蜀軍と対峙し、敗戦もあったが最終的に234年には五丈原で諸葛亮の死を受けて蜀の勢威を挫いた[2][3]238年にはと連動して反魏的行動をとっていた遼東の公孫淵を討ち、魏における地位を不動のものとした[2]。直後に明帝曹叡も崩御し、その直前に幼い曹芳を魏宗室の曹爽と共に託された[4]。しかし、曹爽との間に確執が生じ、司馬懿は一時的にその実権を奪われた[4]

249年に司馬懿はクーデターを起こし、曹爽一派を誅滅した(高平陵の変[4]。これにより司馬一族は魏の権力を完全に掌握する。2年後の251年8月、司馬懿は死去した[5]

覇権の確立

司馬昭(左は司馬攸)

司馬懿の死後、その実権は正妻張春華との子である長男の司馬師が継承した[5]252年には孫権の死に乗じて諸葛誕を呉に侵攻させるが、東興の戦いで大敗を喫した[5]。しかし司馬師はこの敗戦で諸将を不問としたため[5]、かえって人心を得ることになった[6]254年2月、宰相李豊による反司馬師の密謀が露見し、関係者が処刑され、さらに皇帝曹芳をも皇太后の命令と称して廃位を実行した[6]。新たな皇帝には文帝の孫の曹髦が傀儡として立てられた[6]。しかし255年2月、この強引な廃立に対呉戦線の重鎮にあった毌丘倹文欽ら宿将らが反発して乱(毌丘倹・文欽の乱)を起こし、司馬師自ら鎮圧に赴く[6]。反乱は鎮圧されたが、司馬師も病状が悪化して死亡した[6]

司馬師の死後、同母弟の司馬昭(司馬懿の次男)が後継者となり、大将軍・録尚書事に就任した[7]257年5月には対呉戦線で強大な勢力を誇っていた諸葛誕が反司馬氏の兵を挙げると、これを皇帝や皇太后を奉じて258年2月までに滅ぼした[7]260年5月には傀儡曹髦のクーデターを鎮圧して殺害した[8]

この頃になると諸葛亮亡き後の蜀では退潮の色が濃くなっており[8]、263年5月に司馬昭は新たな傀儡元帝から蜀征討の詔を出させ、8月に18万の大軍を鄧艾鍾会らに預けて11月に滅ぼした[9]蜀漢の滅亡)。蜀平定前の10月から司馬昭に対して晋公就任の詔が出され、司馬昭は晋公となった[10]。264年3月には晋王に進み[3]、5月には司馬懿に晋国の宣王、司馬師に景王を追贈し、10月に嫡子司馬炎を晋国の世子と定めた[10]。その後も魏臣に対して本領安堵を成すなど、着実な魏から晋への禅譲の準備が進められていくが、265年8月に司馬昭は急死した[10]

晋の成立

司馬炎

司馬昭の死後は嫡男の司馬炎が継いで晋王・相国となった[11]。そして265年12月には魏の元帝から禅譲を受けて即位し(武帝)、年号を泰始と改めた[11][3]

270年鮮卑禿髪樹機能が反乱を起こし、秦州刺史胡烈涼州刺史の牽弘を破った。277年文鴦が禿髪樹機能を降伏させた。

279年、禿髪樹機能は再び反乱を起こし、涼州を制圧したが、西晋の馬隆に大敗し部下の没骨能に殺害された(禿髪樹機能の乱)。

西晋の孫呉攻略。

この頃、三国最後の呉は孫晧の暴政により乱れていたので、同年11月に武帝は賈充杜預王濬王渾らを大将にして東西から20万余の大軍を派兵した[12]。晋軍は280年2月に江陵を攻略し、3月には石頭城を落として呉の都の建業に侵攻し、孫皓は降伏(呉の滅亡)。これにより三国時代は終焉し、中華は約100年ぶりに統一された。

乱れた武帝

武帝は統一事業を完成させると急に堕落した。それまでの英主が愚君に変貌して女と酒に溺れて朝政を顧みなくなった。また武帝の皇太子司馬衷が暗愚なため、衆望は武帝の12歳年下の同母弟で優秀だった斉王司馬攸の後継を期待していた[13]。ところが武帝は司馬攸に対して斉への赴任命令を出し、周囲の諫言を封殺した上に司馬攸を支持する派閥を徹底的に粛清した[13]。司馬攸はこの命令に憂憤して発病し、283年に死去した。これにより晋宗室を支える人材はいなくなり、武帝の晩年には皇后楊芷の父の楊駿が朝政を掌握して、西晋はかつての後漢と同じように外戚が国を専権する様相が再現された[14]

八王の乱

武帝は290年4月に崩御し、皇太子司馬衷(恵帝)が第2代皇帝として即位した[15][16][17]。しかしこの皇太子は暗愚で知られた人物で、司馬昭からも太子を取り替えるべきと言われていて、武帝も一時は真剣に廃太子を検討したことがあった[18]。その前評判どおり、即位した恵帝は政治を放り出し、実権は武帝の晩年から朝政を掌握していた皇太后楊芷の父の楊駿が輔政の形で壟断した[15][16][19]。これが後に西晋の根幹を揺るがした八王の乱の伏線となった。

楊駿は2人の弟を要職に就けて一族で専横した[16]。だが恵帝の皇后の賈后賈充の娘)は楊氏の専横を憎み、禁軍の中にも楊氏一族に対する不満が高まり、291年に汝南王司馬亮・楚王司馬瑋と結託して楊駿を殺害した[19]。さらに司馬亮は聡明で人望もあったため[19]、賈后は次第に疎みだして司馬瑋を扇動して司馬亮を殺させ、その罪を全て司馬瑋に負わせて彼も殺害し、こうして結託したはずの2人も殺害して実権を掌握した[20][15][16][17]。その後は賈后と甥の賈謐による10年弱の専横が続くが[15][16]、政治そのものは名士の張華らが見たためかろうじて西晋は安定が保たれた[21][22]

だが賈后は美少年を宮中に入れて淫行を繰り返し[23]、299年12月、自らの実子ではない皇太子司馬遹を廃し、300年3月に殺害。これにより西晋全土で賈后に対する専横に反発が生まれ、同年4月に趙王司馬倫は斉王司馬冏と語らって賈后とその一派を殺して首都の洛陽を制圧し、301年1月に恵帝を廃して自ら即位した[24][21][22]。これが八王の乱の始まりである。

司馬倫の簒奪は諸王の反発を招き、また司馬倫は皇帝の虚名に酔いしれて一味徒党の誰彼に見境なく官爵を濫発したため朝廷は乱脈政治が展開され、301年に司馬倫は斉王司馬冏・河間王司馬顒・成都王司馬穎により殺害されて恵帝が復位したが[24][17]、これ以後皇族同士による血を血で洗う争いが続き国内は荒廃した[22]。このような争いに嫌気が差した知識人たちは権力から離れ、隠者になり清談や詩作にふけるようになった。その中でも有名な者が竹林の七賢である。八王の乱は最終的に306年11月に東海王司馬越によって恵帝が毒殺され(病死説もあるが、毒殺の可能性も示唆されている)、12月にその異母弟である懐帝司馬熾が第3代皇帝に擁立されることで終焉した[21][22][25][17]

永嘉の乱と西晋の実質的な滅亡

八王の乱による混乱を見た匈奴の大首長劉淵は、304年に晋より自立して匈奴大単于を称する。この時をもって五胡十六国時代の始まりとされる。劉淵は更に308年には皇帝を名乗って匈奴単于氏族たる攣鞮氏漢室劉氏の通婚関係の歴史を背景に国号を漢(後継者で中興の祖となる劉曜の代にこれを廃して趙を名乗り、後世からは前趙と呼ばれる)とした。また四川族の李雄による成漢(当初大成を、後に漢を称す)が自立するなどした。こうして八王の乱で中央の威令は大きく失墜し、中国には西晋に反抗する諸勢力が各地に割拠する状況に陥った[21]。それでも東海王司馬越の存在により各地に割拠する勢力は辛うじて抑えられていた。

だが、西晋朝廷内部では実権を握っていた司馬越が詔と称して丞相を称するなどして懐帝との対立が発生[22]。311年には懐帝が遂に司馬越討伐の勅命を発するに至る。司馬越は逃亡先で3月に憂憤のうちに病死した。4月、司馬越の死を好機と見て匈奴出身の漢の武将の石勒は、司馬越の跡を継いで晋軍元帥となっていた王衍の軍勢10万余を苦県において破り多くの重臣を捕虜にした[26][27][21]。これにより西晋は完全に統治能力と抵抗力を喪失、劉淵は先年死去していたため子の劉聡が継いで、劉曜と王弥そして石勒は大挙して311年6月に西晋の首都の洛陽に攻めこみ、略奪暴行の限りを尽くした[21][22]

この一連の動乱は、時の年号をとって永嘉の乱と呼ぶが、西晋側から見て異民族の反乱であり、実質は匈奴の末裔に敗戦し国が滅ぼされたに等しかった。洛陽は破壊され何万人もが殺害され、懐帝は玉璽と共に漢の都の平陽に拉致され[26]、さらに前帝=恵帝の皇后(『恵皇后』)羊氏に至っては劉曜の妻とされた[21]。懐帝は生かされたものの、劉聡により奴僕の服装をさせられ、酒宴で酒を注ぐ役と杯洗い、劉聡外出の際には日除けの傘の持ち役にされたりという屈辱を与えられ[26]、人々からは晋皇帝のなれの果てと嘲り笑われて屈辱を嘗めつくした後の313年1月に処刑された[28][29][30]。こうして西晋は事実上滅亡した[21][22][29]

完全な滅亡

懐帝が処刑されたことを聞いて長安にいた懐帝の甥の司馬鄴(愍帝)は313年4月に即位して漢(前趙)に抵抗した[29]。しかし長安も漢の劉曜により攻撃され、晋軍は抵抗するが連敗した。またこの愍帝の政権は華北に残存していた西晋の残党により建てられた極めて脆弱な政権で支配力は長安周辺にしか及ばない関中地域政権でしかなく、その長安は八王の乱で既に荒廃していたために統治力も無く、さらに西晋の諸王も援軍に現れなかったため、316年に長安が陥落して洛陽と同じく略奪殺戮の巷となり、愍帝は漢に降伏し、平陽に拉致された[21][28][29]。こうして西晋は完全に滅亡した[28][29]

愍帝は生かされたが、懐帝同様の扱いを受けた後の317年12月に、漢の劉聡により殺された[21][28][29][30]。ここに司馬昭・司馬炎系の西晋の皇統は断絶した。

これより先、司馬越の命令で江南の方面軍司令官として安東将軍・都督揚州諸軍事として統治に当たっていた琅邪王司馬睿(元帝。司馬懿の四男の司馬伷の孫)は[31]、愍帝が降伏すると、317年3月に晋王を称して建武と改元した[28]。そして愍帝が殺されると、318年3月に即位して建康に都して東晋を建国した[32][28]


注釈

  1. ^ 魏で禁錮(公職追放)の扱いを受けていた魏および後漢宗室関係者の禁錮も、それぞれ265年、266年に解除している[36]
  2. ^ 魏より禅譲
  3. ^ 280年に天下統一(呉の滅亡)
  4. ^ 即位は認められず僭称とされたので、歴代皇帝には数えられない。
  5. ^ 西晋滅亡

出典

  1. ^ a b c d 川本 2005, p. 36.
  2. ^ a b c d e 川本 2005, p. 37.
  3. ^ a b c 山本 2010, p. 92.
  4. ^ a b c 川本 2005, p. 38.
  5. ^ a b c d 川本 2005, p. 40.
  6. ^ a b c d e 川本 2005, p. 41.
  7. ^ a b 川本 2005, p. 42.
  8. ^ a b 川本 2005, p. 43.
  9. ^ 川本 2005, p. 44.
  10. ^ a b c 川本 2005, p. 45.
  11. ^ a b 川本 2005, p. 47.
  12. ^ 川本 2005, p. 50.
  13. ^ a b 川本 2005, p. 53.
  14. ^ 川本 2005, p. 54.
  15. ^ a b c d 川本 2005, p. 57.
  16. ^ a b c d e 三崎 2002, p. 47.
  17. ^ a b c d e f g h 山本 2010, p. 93.
  18. ^ 駒田 & 常石 1997, p. 54.
  19. ^ a b c 駒田 & 常石 1997, p. 55.
  20. ^ 駒田 & 常石 1997, p. 56.
  21. ^ a b c d e f g h i j 川本 2005, p. 58.
  22. ^ a b c d e f g 三崎 2002, p. 48.
  23. ^ 駒田 & 常石 1997, p. 57.
  24. ^ a b 駒田 & 常石 1997, p. 58.
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  26. ^ a b c 駒田 & 常石 1997, p. 60.
  27. ^ 駒田 & 常石 1997, p. 79.
  28. ^ a b c d e f g 三崎 2002, p. 49.
  29. ^ a b c d e f 駒田 & 常石 1997, p. 61.
  30. ^ a b 山本 2010, p. 94.
  31. ^ a b 川本 2005, p. 119.
  32. ^ 川本 2005, p. 121.
  33. ^ a b c 川本 2005, p. 51.
  34. ^ a b c 川本 2005, p. 52.
  35. ^ a b c d e 川本 2005, p. 48.
  36. ^ 『晋書』武帝紀
  37. ^ 柿沼 2018, pp. 336–341.
  38. ^ 柿沼 2018, pp. 342–345.
  39. ^ 柿沼 2018, pp. 345–346.
  40. ^ 柿沼 2018, pp. 346–351.
  41. ^ 川本 2005, p. 117.
  42. ^ a b c d e f g 川本 2005, p. 118.
  43. ^ a b 駒田 & 常石 1997, p. 80.
  44. ^ 駒田 & 常石 1997, p. 77.
  45. ^ 三崎 2002, p. 20.
  46. ^ a b c 三崎 2002, p. 21.
  47. ^ 三崎 2002, p. 23.






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