竪穴式住居
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/17 04:15 UTC 版)
概要
考古学では、地面を掘り下げて地表面より低い位置に床面を構築する建物を「竪穴建物(竪穴住居)」という[4]。これは、床面をそれらが建てられた当時の地表面と同じか僅かに盛土した程度の高さに構築した建物をさす「平地建物」や、掘立柱などで地表面より高い位置に床面を浮かせて構築する「高床建物」などの用語と対比的に用いられる。つまり床面の「高さ」という基準に基づく建築上の分類名である[5][6]。「竪穴(縦穴)」という用語は「横穴」という表現の対照として生まれた[7]。
地表面より低くした床面の上に建てた複数の掘立柱(主柱)によって、屋根などの上屋部分を支持する「柱建(立)ち[8]」の構造を主体とする。これは、工法的にはいわゆる掘立柱建物と同一であるが、日本の考古学界では竪穴建物の床面が地表面より低くなる点をもって竪穴建物と掘立柱建物とを区別している[9][10]。
英語表記の1つ「pit-house」は、厳密には竪穴建物のうち、屋根以外を竪穴部のみで構成する、つまり竪穴に屋根を被せた形の建物のことをいうが、竪穴自体が浅く、地上部分の構造物のある竪穴建物についてもこのように呼ぶ研究者がいるので、日本語の「竪穴建物」と、ある程度置き換えが可能である[要出典]。
日本列島における竪穴建物跡の発掘調査の検出状況における深さは通常70~80センチメートルほどであり、佐原真のいわく「穴とはいえ、わざわざ『竪』を付けるほど深くはない[11]」が、知床半島に近い北海道標津郡標津町にある擦文文化期の標津遺跡群(伊茶仁カリカリウス遺跡)では、この建物の掘り込み跡である直径4メートルから10メートルほどの摺鉢状の窪みが、現在の地表面に多数密集し、かつて「穴居」(けっきょ)と呼ばれていた[12]。これらは周囲に盛りあげた周堤(しゅうてい)から床面までの深さが2メートルから2.5メートルもあり、佐原はこれらの存在から「竪穴」と呼ばれる由縁が分かるとしている[12]。
呼称の変化
かつては「竪穴式住居」と呼称・表記されることが多かったが、次第に「式」を除いた「竪穴住居」が用いられるようになり現在一般化している。学術書籍などでは、1975年(昭和50年)発行の『岩波講座日本歴史』シリーズ第1巻(原始および古代1)の時点で、岡本勇は「竪穴住居」の表記を用いている[13]。
ただし近年の日本列島における発掘調査では、工房や喪屋・馬小屋など、居住以外の目的で使われた同建物の遺構検出事例も増加し、必ずしも用途を「住居」に限定出来ないことが判明してきた[9][3]。また「掘立柱建物」や「礎石建物」などの、他の建物遺構の用語との対応を考慮して、2010年代に入り文化庁は『発掘調査のてびき』で「竪穴建物」と呼称する方針を示している[9]。
注釈
- ^ 梁や桁を持つ建物は、発掘調査時に主柱が4本以上検出される竪穴建物の場合と考えられている[15]。
- ^ 壁式構造[25]、大壁建物[26]とも。
- ^ ただし佐原真の記述や[8]、滋賀県守山市の下之郷遺跡公式サイト[27]のように「壁建ち建物」の意味で「壁立ち」と表記している資料もあり、注意を要する。
- ^ 下五反田遺跡の事例は、壁板材で上屋を支える構造でありつつ床面を地表より掘り下げているため、「壁建ち建物(大壁建物)かつ壁立式の竪穴建物」という条件を備えている[26]。
- ^ これら周堤や外周溝は、静岡県静岡市の登呂遺跡などに見られる竪穴建物によく似るが床を地表面より掘り下げない竪穴状平地建物にも存在する[33]。
- ^ 岩陰遺跡や洞窟遺跡に対して、開けた土地の遺跡を「開地遺跡(Open Site)」と呼ぶ[4]。
- ^ これら中世の竪穴建物と、原始・古代の竪穴建物との系譜的な連続性の有無については検討の余地があるとされている[45]。
出典
- ^ 文化庁文化財部記念物課 2013, pp. 131–154.
- ^ 佐賀県文化課文化財保護室. “竪穴建物の平面形”. 佐賀県. 2022年10月2日閲覧。
- ^ a b 桐生 2015, pp. 14–16.
- ^ a b 佐原 2005, p. 283.
- ^ a b 江坂, 芹沢 & 坂詰 2005, pp. 367–368.
- ^ 文化庁文化財部記念物課 2013, p. 192.
- ^ 佐原 2005, p. 285.
- ^ a b 佐原 2005, pp. 291–293.
- ^ a b c d 文化庁文化財部記念物課 2013, p. 131.
- ^ 文化庁文化財部記念物課 2013, p. 158.
- ^ 佐原 2005, p. 284.
- ^ a b 佐原 2005, pp. 283–285.
- ^ 岡本 1975, pp. 76–112.
- ^ a b 文化庁文化財部記念物課 2013, pp. 131–136.
- ^ 文化庁文化財部記念物課 2013, p. 133.
- ^ 文化庁文化財部記念物課 2013, pp. 132–133.
- ^ 文化庁文化財部記念物課 2013, p. 132.
- ^ 文化庁文化財部記念物課 2013, pp. 133–134.
- ^ 文化庁文化財部記念物課 2013, pp. 131–133.
- ^ 「縄文の竪穴住居 実は土屋根?岩手や青森で復元/茅葺き 根拠乏しく」『読売新聞』朝刊2018年6月13日(文化面)
- ^ 岩手県世界文化遺産関連ポータルサイト. “土屋根住居の発見”. 岩手県. 2023年7月17日閲覧。
- ^ a b 文化庁文化財部記念物課 2013, p. 134.
- ^ 文化庁 2013, p. 132.
- ^ 文化庁文化財部記念物課 2013, pp. 191–192.
- ^ 平井 & 桐敷 1998, p. 110.
- ^ a b 文化庁文化財部記念物課 2013, pp. 134–135.
- ^ NPO法人 守山弥生遺跡研究会. “国史跡 下之郷遺跡”. 2023年7月17日閲覧。
- ^ 文化庁文化財部記念物課 2013, pp. 136–142.
- ^ a b c d 文化庁文化財部記念物課 2013, p. 136.
- ^ a b c 佐原 2005, pp. 286–287.
- ^ a b 静岡市立登呂博物館. “遺跡体験、弥生の風景を見る、歩く。-住居”. 静岡市. 2023年8月24日閲覧。
- ^ 文化庁文化財部記念物課 2013, pp. 137–138.
- ^ a b c 文化庁文化財部記念物課 2013, p. 138.
- ^ 文化庁文化財部記念物課 2013, pp. 139–142.
- ^ 文化庁文化財部記念物課 2013, p. 139.
- ^ a b 文化庁文化財部記念物課 2013, p. 140.
- ^ 安蒜 2010, pp. 1–8.
- ^ a b 堤 2009, pp. 68–71.
- ^ a b 堤 2009, pp. 28–29.
- ^ 太田 & 藤井 1999.
- ^ 文化庁文化財部記念物課 2013, p. 143.
- ^ 横浜市歴史博物館 2010, pp. 15–17.
- ^ 横浜市歴史博物館 2012, p. 9.
- ^ 平井 & 桐敷 1998, p. 18.
- ^ a b 鈴木 2006, p. 82.
- ^ 苫小牧市 1975, p. 332.
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