神流川の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/07 04:33 UTC 版)
背景
甲州征伐
関東の戦国大名後北条氏は天正8年(1580年)頃から織田氏と同盟関係にあり、当主氏直と信長の息女の縁組も実現間近だった。信長が当時敵対していた武田勝頼の室は、氏直の父で北条家前当主北条氏政の妹に当たる。このため当初、氏政の政権は親武田を模索するが、上杉氏の御館の乱における勝頼との対立によって第二次甲相同盟は破綻した。この後、北条家は織田家との同盟に家運を賭けて取り組んでおり対武田に大軍の動員態勢をとった。
天正10年(1582年)2月、信長の嫡男・織田信忠を大将とする織田軍は単独で電撃的に侵攻した(甲州征伐)。結果的に北条軍や信長の本隊が進む以前に武田家はあっけなく崩壊する。この際、焦った北条家から織田家に対して侵攻の機をみるために戦況をうかがった記録が残っている。こうした記録により、織田家は表面上の友好関係で糊塗しながら戦後の交渉などを有利とするために情報封鎖を敢行したのだと考えられている。
北条軍は戦意旺盛ながらも東海道から駿河方面への進出と甲州街道から甲斐国郡内、あるいは上野方面への方針が定まらず、旧領の駿河東部の武田家の勢力を駆逐するなど一定の成果を挙げたものの、戦略的には右往左往する。上野方面では3月12日に北条氏邦が真田昌幸に北条家に降るよう書状を送っているが[4]、大きな戦果を挙げられず、武田家滅亡(3月11日)を迎えた。
滝川一益による関東支配
甲州征伐終了後の3月23日、織田信長は重臣・滝川一益に上野一国と信濃の小県郡・佐久郡を与え、織田家に従った関東諸侯をその与力とした。一益は箕輪城、次いで厩橋城を本拠とし、北毛の沼田城に滝川益重、西毛の松井田城に津田秀政、佐久郡の小諸城に道家正栄を置いた。残る武田領は、3月29日、河尻秀隆が甲斐一国(穴山領除く)と諏訪郡、森長可が信濃4郡、毛利長秀が伊奈郡を与えられ、木曾義昌が木曽谷と安曇郡、筑摩郡を安堵された。従って、北条家の領土の加増は無かった。
一益は新領地統治にあたり、関東の諸将に対して本領を安堵することを申し渡した為、近隣の諸将は人質を伴い次々と出仕した。この時、佐野氏の天徳寺宝衍と、倉賀野城主の倉賀野秀景は側近とされ、関東の佐竹義重・宇都宮国綱・里見義頼、更には奥州の伊達輝宗・蘆名盛隆と連絡をとっている。しかしながら、千葉邦胤、武田豊信は出仕を拒否し、古河公方・足利義氏とその家臣・簗田晴助には一益からの連絡自体が行われていなかった。
天正10年(1582年)5月には、一益は諸領主を厩橋城に集め能興行を開催、嫡男(一忠)、次男(一時)を伴い自ら玉蔓を舞っている。この興行には北条家も参加しており、表面的には両家の友好ムードは一層高まっていた[4]。
滝川家中では北条家の勢力を「南方」と呼び、丁重な応対が為されていたが、その一方で一益は祇園城(下野)を元の城主である小山秀綱に返還させるなど北条側に不利な裁定を下すこともあり、織田家との同盟に家運を賭けているとはいえ、関東管領の座を従前から志向する北条家としては内心穏やかならざる状況でもあった。特に、上野が織田直轄領の観を呈し、佐竹義重を頼っていた太田資正・梶原政景親子までもが一益に伺候すると、北条家にも焦りや織田家に対する不信感が芽生えていた。
本能寺の変
本能寺の変と上州諸将
6月9日、一益にもその報が届き[2]、篠岡平右衛、津田治右衛門、滝川益重等の家臣を呼び伝えたところ、滝川益重等は「このことは上野衆に隠密にして、上洛することが当然である。国人を集めて披露するなど軽率なり」[5]と申し出た。しかし一益は「諫言もっともなり、しかしけして軽率ではない、悪事千里を行くと云うことわざがある、国人が信長公の死去を他から聞けば、我々に隔意をもつであろうから、急いで城主どもを呼び集めよ」[5]と廻書を遣わした。
この頃、箕輪城を明け渡した内藤昌月は謀叛を疑われ、内藤家に身を寄せていた保科正俊、保科正直等と共に一門命運も尽きたと覚悟していたところ、本能寺の変の知らせと合力の使いが滝川方よりもたらされ、驚くとともに安堵したと伝わる[6]。
6月10日、上州の諸将を集めた一益は、信長父子兇変(きょうへん)を告げ、「我等は上方にはせ帰り織田信雄、信孝両公を守り、光秀と一戦して先君の重恩に報いねばならぬ。この機に乗じ一益の首をとって北条に降る手土産にしようと思う者は遠慮なく戦いを仕かけるがよい。それがしは北条勢と決戦を交え、利不利にかかわらず上方に向かうつもりだ。」(上毛古戦記)と述べた[7]。
6月11日、一益は長昌寺(厩橋)で能を興行しているが、総構を大竹にて二重につくるほどの厳重ぶりであり、上野衆を討ち果たす計略ではないかとの噂が北条高広(旧厩橋城主)の家臣らの間で流れたという[2]。
一方、一益は6月12日付けの書状で[8]、上方の安否を聞いてきた小泉城(東毛)の富岡秀高(六郎四郎)に対し、「京都の情勢は、それ(信長死去)以後なんとも聞いてはおりません、別に変わったことはありません、」[9]と書状を送っている。一益が集め真実を告げたのは、上州諸将の内、北条高広など主要な武将のみであったとも考えられる[10]。
沼田城の戦い
この報に際し、沼須城主(北毛)の藤田信吉が一益に対し反乱を起こした。藤田信吉は越後の長尾伊賀守に使いを出して上杉景勝に通じ、5千の兵を率いて滝川益重の兵4千が守る沼田城を攻め、水曲輪の一つを占拠した。6月13日、益重から報告を受けた一益が2万の兵(新田の滝川豊前、小幡、安中、和田、倉賀野、由良、館林の長尾、箕輪の内藤)を率いて駆けつけると藤田信吉は敗れ去り、泣く泣く越後へ落ち延びた[11]。
旧武田領の混乱
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この頃、北信濃の森長可、南信濃の毛利長秀は領地を放棄してそれぞれ美濃と尾張に帰還し、甲斐の河尻秀隆は18日に武田遺臣により殺害されている。
北条氏の上野侵攻
本能寺の変は、北条氏にも伝わっており、6月11日、北条氏政は深谷の狩野一庵から本能寺の情報を得た事を滝川一益に伝え、引き続き協調関係を継続する旨を伝えている[10]。但し狩野一庵は北条氏照の家老であり、既に深谷まで氏照の軍勢が北上していたことも示していた[10]。更に北条氏は6月12日には、領国に動員令を発動しており、織田信長と信忠の死が確実な状況となると、北条氏直、氏邦が率いる5万の兵が上野に侵攻した。上野を治めてまだ3ヶ月しかたっておらず、軍の統制が十分に取れていない一益は、厩橋城に滝川忠征、松井田城に津田秀政と稲田九蔵の兵1500騎[5]、小諸城に道家正栄を残し、1万8千の兵を率い北条勢を迎え討った[1]。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai 『上州治乱記』
- ^ a b c d e f 『石川忠総留書』
- ^ 『北条五代記』
- ^ a b c 『戦国時代の終焉』斎藤慎一
- ^ a b c d 『滝川一益事書』
- ^ 『赤羽記』(保科記)、『「神流川合戦記」-郷土史蹟 史記による関東最大の戦』p.6(千木良英一)
- ^ その他、『北条五代記』『関八州古戦録』『武徳編年集成』『上州治乱記』『甫庵信長記』
- ^ 『富岡家文書』富岡六郎四朗宛返報「、京都之儀、其以後何共不承候、無別条之由候、」
- ^ (訳)『群馬県史 通史編3 』p.674-675
- ^ a b c 『新編高崎市史 通史編2中世』p.290-291
- ^ 『管窺武鑑』、『戦国武将と神流川合戦』p.149-151(千木良英一)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba 『神流川合戦記(金讃本)』
- ^ a b 『石川忠総留書』
- ^ a b c d e f g 『上野国赤坂荘和田記』
- ^ a b c d e f g 『上野古戦録』
- ^ 『大日本史料 第十一編之一』P.668
- ^ 『小田原記』
- ^ a b 『松平義行氏所蔵文書』六月二十二日付某書状
- ^ 『戦国武将と神流川合戦』千木良英一
- ^ 『新編高崎市史 通史編2中世』p.290-291
- ^ 『依田記』『上野古戦録』『新町町誌 通史編』p.133
- ^ 『依田記』『北条五代記』
- ^ 『関八州古戦録』
- ^ a b 平山優『天正壬午の乱』
- ^ 『千曲之真砂』
- ^ 『信濃史料』15巻、265頁
- ^ 『木曾孝』
- ^ 『松平義行氏所蔵文書』六月二十二日付某書状
- ^ 『富岡家文書』七月二十日付富岡六郎四朗宛北条氏直書状
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