真田十勇士 概要

真田十勇士

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/30 15:08 UTC 版)

概要

真田幸村とそれに従う家臣という形の原型は江戸時代中期の軍記物および絵本の『真田三代記』に見られるが、「真田十勇士」という表現をはじめて用いたのは、明治大正時代に刊行された立川文庫である。以後の「ヒーローとしてのイメージ」は、立川文庫という創作物によって定着した。

現在に至るまで、多くの派生作品が制作されており(#派生作品)、彼らに影響されたキャラクターが数多く生み出されている。

十勇士の成立

「ヒーローとしての真田幸村」の登場は、寛文12年(1672年)に書かれた軍記物難波戦記』である。江戸後期には小説『真田三代記』が成立し、真田昌幸・幸村・大助の三代が徳川家に対して奮戦するストーリーが人気を博した。この『真田三代記』において後に十勇士と呼ばれる人物や、似た名前の人物が多数登場し(同姓の人物も含めると、猿飛佐助以外の人物がこの時点で登場している)、「真田もの」の講談の流行によって、真田主従は民衆のヒーローとなった。明治後期の講談は神田伯龍『難波戦記』(1899年)などの口演速記本が書き残されている。講談師たちは『真田三代記』にはない忍術つかいの「猿飛佐助」[1]を生み出し、「霧隠才蔵」ら真田家の英雄豪傑の物語を膨らませていった。

1911年に大阪で発刊された立川文庫は、講談師玉田玉秀斎らが中心となって講談を読み物として再編集したもので、その後の大衆文学に大きな影響を与えた。この立川文庫において、『知謀 真田幸村』(第5編)に続き、

  1. 『真田三勇士忍術名人猿飛佐助』(第40編、1914年)
  2. 『真田三勇士由利鎌之助
  3. 『真田三勇士忍術名人霧隠才蔵』(第55編)

を「真田三勇士」とする三部作が創られた。次いで『真田家豪傑三好清海入道』など、真田家の豪傑の逸話をあつめた作品が刊行され、のちに『真田十勇士』が刊行された[要出典]。立川文庫は人気作品となり、新しいメディアである映画でも忍術使い猿飛佐助を中心とする作品群が作られた[2]。今日の真田十勇士という枠組みは、ここに起源を持っている。

十勇士一覧

ここでは真田十勇士の一覧と簡単な人物設定を記述する。真田十勇士は成立したとされる明治大正期以降、現代に至るまで講談や小説などで様々に脚色がなされ、作品によって設定のバラエティーも非常に豊富である。ここではオリジナルとみなされる立川文庫での設定、あるいはその取材元と目ぼしい『真田三代記』などの江戸期での展開のみを記述する。

猿飛佐助

猿飛佐助(さるとび さすけ)は、真田十勇士でも屈指の実力と人気を持つ忍者。戸沢白雲斎の秘蔵弟子。

霧隠才蔵

霧隠才蔵(きりがくれ さいぞう)は、猿飛佐助と並び真田十勇士の中でも忍術を得手とする。渡りと呼ばれる何処にも属さない忍者だったという説もある。伊賀忍者の頭領・百地三太夫の弟子とされており、同時代に生きた盗賊・石川五右衛門は兄弟弟子にあたるという。立川文庫の55冊目に『真田三勇士忍術名人 霧隠才蔵』の巻があり、真田十勇士では猿飛佐助に次いで人気があり、前述の「霧隠才蔵」以降でも主役を務めることがある。江戸以前の資料では『真田三代記』に「霧隠鹿右衛門」という忍者が登場する。

霧隠才蔵を主人公にした作品

小説
漫画
映画

三好清海入道

三好清海入道(みよし せいかいにゅうどう)は、弟の伊佐入道と兄弟で真田幸村に仕える僧体の豪傑である。出羽国亀田の領主出身で、遠戚に当たる真田家を頼って仕えたという。『真田三代記』でも亀田の領主と設定されており、兄弟ともに非常に高齢。大坂夏の陣で兄弟ともに戦没しているとされる。

三好清海入道を主人公にした作品

漫画

三好伊佐入道

三好伊佐入道(みよし いさにゅうどう)は、三好清海入道の弟で、やはり幸村に仕える僧体の豪傑。兄と同じく元は出羽国亀田の出身で、兄とともに真田家に仕官した。『真田三代記』でも兄とともにその名が見られ、大坂夏の陣では豊臣方として参戦、戦没したとされる。薙刀の使い手だった。

穴山小助

穴山小助(あなやま こすけ)は、真田幸村の側近の一人。作品によっては幸村の影武者となる。『真田三代記』では幸村の家臣としては特に登場頻度が多い股肱の臣として描かれている。同作によると諱は安治、幼名は岩千代。雲洞軒と号していた時期もあった。父の名は穴山小兵衛といい、真田家譜代の家臣の家柄に生まれる。大坂の陣では幸村から影武者を演じるように命じられ、そのまま戦死。関東方を欺く事に成功している。

由利鎌之助

由利鎌之助(ゆり かまのすけ)は、真田幸村に仕えた豪傑の一人。彼を主役とした『真田三勇士 由利鎌之助』の巻がある。『真田三代記』でも豪傑・武将として登場。諱を基幸といい、最初は野田菅沼家に仕えていたが、真田軍に敗れて捕虜となった後に真田家へ加わっている。

筧十蔵

筧十蔵(かけい じゅうぞう)は、真田幸村の側近の一人。父は真田家の重臣である筧十兵衛。『真田三代記』には登場しないが、父と同名である筧十兵衛は登場する。筧十兵衛虎秀は元は足軽という低い身分だったが、真田幸隆・昌幸に仕えて取り立てられた。そのほか同作では、筧金六郎など筧姓の真田家武将が登場している。

海野六郎

海野六郎(うんの ろくろう)は、真田幸村の側近の一人。真田家重臣の家柄で、叔父は真田家の侍大将を務めていた。『真田三代記』には同名の人物こそ登場するが、「真田幸隆の義理の甥」という立場であり、同一人物とは認めがたい。幸村の時代には海野六郎兵衛利一という人物が登場する。

根津甚八

根津甚八(ねづ じんぱち)は、真田幸村の家臣の一人。『真田三代記』でも幸村の家臣・根津甚八郎貞盛として登場。大坂夏の陣の最終局面で幸村の影武者となって討死した。同作には根津姓の真田家臣も複数登場している。俳優の根津甚八は、この人物が芸名の由来となった。

望月六郎

望月六郎(もちづき ろくろう)は、真田幸村の側近の一人。6歳のころから幸村(信繁)に仕えている。爆弾つくりの名人。

立川文庫の作品によっては望月主水、望月三郎などとも呼ばれる。『真田三代記』では望月主水が登場。そのほか望月姓の真田家臣が数多く登場する。


  1. ^ 旭堂小南陵(現・南陵)「「立川文庫」前からの講談ネタ確認」[リンク切れ] 南陵によれば、「猿飛佐助」の初出は1901年2月、「霧隠の才蔵」の初出は1900年6月まですくなくとも遡ることができるといい、「猿飛佐助」を立川文庫執筆者が創作したとの説を退けている。
  2. ^ 日本映画データベースによれば、『猿飛佐助』(1915年7月、天活)、『真田十勇士』(1918年12月、天活)など。
  3. ^ 真田十忍抄 - 実業之日本社 2021年5月12日閲覧
  4. ^ 人気舞台『真田十勇士』が映画化 大島優子がくノ一役「自分にはぴったり」”. ORICON STYLE (2015年12月15日). 2015年12月16日閲覧。


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