王道プロレス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/18 20:07 UTC 版)
歴史
1980年代までの全日本プロレスは、アメリカンプロレスと言われるプロレスを行っており、アブドーラ・ザ・ブッチャーやザ・シークに代表されるように後のハードコア・レスリングにも通じる「流血試合」が多く、またリングアウトドローなどの試合も多かった。暮沢剛巳は「全日本が王道と言われだしたのは1990年代以降に猪木の『闘魂』、大仁田厚の『邪道』との対比で言われるようになったもの、そもそもごく普通の技であるドロップキックを『三十二文ロケット』『アポロキック』と呼ばせてしまう馬場の圧倒的な存在感は、かえって全日本に注意を引くキャッチフレーズが定着することを妨げた面があった」と指摘している[11]。しかし、1990年に天龍源一郎らがSWS設立に伴い移籍し、プロレス界もWWF(現:WWE)をはじめアメリカンマットがTV主導の興行形態を確立し、大物外国人レスラーの来日機会が少なくなったことから馬場は「あいつらは俺の元から離れていった。だから、これからは俺のやりたいプロレスをやるよ」と言い、三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太の4人の若手を抜擢。後にこの4人がプロレス四天王と呼ばれるようになった。
2000年に全日本を離脱したほぼ90%の面々でプロレスリング・ノアが旗揚げされたため、全日本で王道プロレスを体現した選手は、残留した川田、渕正信、太陽ケアの三人のみとなってしまった(2012年に大森隆男が再入団している)。その後新日本から武藤敬司が登場(後に正式に移籍)、社長となると、武藤に代表される「パッケージプロレス」が主流となった。ちなみにノアでは「王道プロレス」を標榜せず、キャッチコピーの類としては「自由と信念」という言葉が知られている。
2006年にはキングスロードが旗揚げされ、王道プロレスを謳っていたが、馬場の継承者がいないことや旗揚げ戦で王道らしきものが見られなかったことから、非常に批判が多く、第2回直前で王道という言葉を使うことを今後は控える声明を発表したが、宮本和志が空気を読まないで「俺が王道だ」と叫んでしまったため、更なる批判を呼んだ。
そのキングスロード第3回大会で、俗に「王道継承者」と言われる三沢光晴率いるノアの選手が出場した(三沢も出場)。キングスロード自体は王道への原点回帰を考えており、この大会にノア選手が出場して、どのようなエッセンスがキングスロードにもたらされるか注目されたが、結局キングスロードは同年7月1日を以って活動停止となった。
2015年、曙が全日本プロレスを退団し、「株式会社 王道」を設立した。会社設立に関しては馬場元子夫人からの支援で個人事務所もジャイアント馬場の自宅に構えられる異例の形となった。
- ^ 門馬忠雄「全日本プロレス超人伝説」P43~44、文春新書、2014年
- ^ 『痛みの価値』pp1(『週刊プロレス』1997年3月25日号より一部引用)
- ^ 『痛みの価値』pp16 - 55 立ち上がった第3の男 天龍源一郎 part.1
- ^ 『痛みの価値』pp16 - 24
- ^ 『痛みの価値』pp25 - 34
- ^ 『痛みの価値』pp25 - 34 「魂が共鳴する男」阿修羅・原をパートナーに狼煙を上げた天龍革命
- ^ 『痛みの価値』pp36 - 37
- ^ 『痛みの価値』pp137
- ^ 『痛みの価値』pp57 - 99 背中は語る 輪島大士、アブドーラ・ザブッチャー、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ
- ^ 『痛みの価値』pp197 「お前のことアニキって呼ばせてくれよ」プロレス史に残るマイクから生まれた馬場と木村の義兄弟タッグ
- ^ 現代思想臨時増刊「プロレス」、P281、2002年、青土社
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