王道プロレス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/18 20:07 UTC 版)
概説
アントニオ猪木はストロングスタイルを提唱し、「強さ」を表に出したプロレスを行い、「実力至上主義」のふれこみでプロレスを続けた。ジャイアント馬場は、晩年になってから受けたインタビューにて「プロレスはいろんなものが混ざっているし、底が深いもの。殴られても蹴られてもそれに耐えられる体を作ってやるのがプロレス[2]」と答え「受けることの大切さ」を提唱していた。
1980年代に王道プロレスという激しいプロレスの源流となったのは天龍源一郎が掲げた「天龍革命」と言われている[3]。1987年、長州力たちジャパンプロレス勢が新日本プロレスへUターン。全日本マットから激しさが失われつつあった際に天龍は「輪島(輪島大士)・ジャンボ(ジャンボ鶴田)と闘うしかない」とアピールし、日本人同士による闘いによって全日本を盛り上げようとしたのである[4]。そして天龍は本気になった鶴田と闘いたいとの思いから「ジャンボは風呂に浮いているヘチマ」などと口撃[5]、天龍は馬場が嫌っていた口によるアピールなどを駆使してでも全日本に激しいプロレスを取り戻そうとしたのであった。天龍が鶴田にハッパをかけたことにより鶴田たちと天龍同盟による抗争が激しくなると自然と全日本に激しい闘いが戻り[6]、そして1989年に入ると全日本は「明るく、楽しく、激しいプロレス」というスローガンを掲げ、リングアウトや反則による決着は「暗いプロレス」であると定義づけして廃するのである[7]。そして、本気になったと言われている鶴田と天龍が三冠ヘビー級王座を争うようになり、1989年6月5日、日本武道館での試合が「プロレス大賞」年間最高試合に選出され、激しいプロレスを定義付けしたと言われる[8]。
しかし1990年、天龍たちが離脱。鶴田が三沢光晴たちの前に立ちはだかることで世代闘争を行うことになったが、1992年に鶴田が病気欠場により三冠ベルトを争う最前線から退くこととなる。必然的に三沢光晴たちがトップに立たざるをえなくなり、三沢、川田利明、小橋建太、田上明による四天王プロレスが激しいプロレスの部分を進化(深化)させて行ったのであった。王道プロレスは、1989年に公表されたキャッチコピーである「明るく、楽しく、激しいプロレス」を体現しているものであるが、四天王プロレスはプロレスの試合内容自体を指す場合には、この中の「激しい」の部分を特徴づけるものとなる。
馬場の立場、精神性をも内包しているという考え方に立つ場合、プロレスの試合内容だけでは語れない部分も出てくる。ちなみに長らく王道プロレスと接してきた和田京平は王道について「長くやっていることが王道」だと言っているほか、天龍源一郎は「形のないものが王道」だと語る。だが、リング内での精神的、肉体的な勝負や受けの美学に拘ったプロレスの試合形式、および試合に臨む態度そのものを王道プロレスと呼ぶと一般には認知されている(四天王プロレスの実践者達の試合後のコメントは控えめであり、競技者や求道者的立場に立った発言が多かった。またリング上で体現する事こそがプロレスラーの全てでありヒールやベビーなどのギミックを良しとしなかった点も大きな特徴といえる)ためレフェリーである和田京平や四天王プロレス以前の天龍よりも、当時メインイベントを飾っていた試合の四天王達こそが王道プロレスの体現者だという見方をとる場合が多い。
- ^ 門馬忠雄「全日本プロレス超人伝説」P43~44、文春新書、2014年
- ^ 『痛みの価値』pp1(『週刊プロレス』1997年3月25日号より一部引用)
- ^ 『痛みの価値』pp16 - 55 立ち上がった第3の男 天龍源一郎 part.1
- ^ 『痛みの価値』pp16 - 24
- ^ 『痛みの価値』pp25 - 34
- ^ 『痛みの価値』pp25 - 34 「魂が共鳴する男」阿修羅・原をパートナーに狼煙を上げた天龍革命
- ^ 『痛みの価値』pp36 - 37
- ^ 『痛みの価値』pp137
- ^ 『痛みの価値』pp57 - 99 背中は語る 輪島大士、アブドーラ・ザブッチャー、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ
- ^ 『痛みの価値』pp197 「お前のことアニキって呼ばせてくれよ」プロレス史に残るマイクから生まれた馬場と木村の義兄弟タッグ
- ^ 現代思想臨時増刊「プロレス」、P281、2002年、青土社
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