清少納言 評価

清少納言

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/28 00:54 UTC 版)

評価

『枕草子』には、清少納言に関する陰口が広まり、それを信じた藤原斉信が一時期「なぜあんな者を一角の人物と思って褒めてきたのだろうか」と殿中で述べていたという記述がある[24]。また源俊賢が清少納言の返答に感心し、内侍の役職につけてもらうよう天皇に願おうとしたという記述もある[25]。『栄花物語』「とりべ野巻」では、清少納言は道隆没後の定子の宮廷をなお盛り立て、その風流を忘れがたい公達が落ち目であったにもかかわらず定子後宮を訪れたことが語られている[26]

一方で紫式部は『紫式部日記』において「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかり賢しだち真名書きちらして侍るほども、よく見れば、まだいと堪へぬことおほかり。かく人に異ならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば(清少納言という人はとても自慢げにしている人です。賢そうに漢文など書いていますが、よく見れば粗が多いものです。このような人と変わったことを好む人は、必ず失敗し、行く末も危ないものです)」と酷評している[27]

鎌倉時代に書かれた『無名草子』では「枕草子に中宮定子の素晴らしかった頃の出来事のみを書き立て、中関白家の没落については全く言及しないのは、清少納言の素晴らしい心がけによるもの」と称賛し、『十訓抄』においては香炉峰の雪の章段を引き[注釈 2]「優れた心ざまを持ち、折につけてのふるまいも素晴らしいことが多かった」と、同時代に数多くいた優れた女房達の筆頭に置いて激賞している。

江戸時代には北村季吟筆とされる『女郎花物語』や浅井了意筆とされる『本朝女鑑』といった歴史上の女性の事績をまとめた仮名草子が執筆され、のちに女訓物、女子用往来などの女性用の教育書も盛んに出版されたが、それらにおいて清少納言は紫式部などとともに賢婦の例として長く称賛された。国学者安藤為章が著書『紫家七論』において、「清少納言は才気狭小で賢しらな態度は憎らしく、紫式部とは並べて論ずることもできない」と酷評した例はあるが[28]、教育書、注釈書の類においては基本的に平安末期~江戸時代を通じて清少納言と紫式部、枕草子と源氏物語については両者について並称し、優劣を付けず論ずることが通例であった[29]

明治時代に入ると近代的な国文学研究が盛んになったが、その初期の集成である「日本文学史」において、著者の三上参次は源氏物語と枕草子の文学的価値の高さは認めた上で、著者の人間性については紫式部はその温柔・貞淑といった女徳の高さが作風にも現れていると称賛しつつ、清少納言は自己に対する慎みがなく、才学を誇っていると非難している[30]。また女性運動の高まりとともに紹介された「新しい女」の概念がやがて揶揄的・嘲笑的に使われるようになると、清少納言をこれに当てはめヘッダ・カブラになぞらえて非難するといった評論さえ現れるようになった[31]。一方与謝野晶子のように新しい時代の女性の規範として称揚する者もいた[32]

明治時代以降の清少納言の人物評は主に紫式部と対比する形で成されるのが常となり、また枕草子論がそのまま清少納言論になる傾向も存在した[33]。その多くは女性は穏健、従順たるべしという封建的な観点により紫式部を評価し清少納言を奔放・高慢として非難するものであった。田辺聖子は『枕草子』を小説化した『むかし・あけぼの』(1983年)の執筆に当たって研究書に目を通したが、清少納言の自己顕示欲を嫌った評論家や研究者が「信じられないような冷評」を行っているとし、中には「感情的な文章で罵倒する評論家もあった」と述べている[27]。国文学者藤岡作太郎は「多くの記事は自讃に充ちて、清少納言が驕慢の性を表せり」と、「『艷容麗色』ならざるがゆえに(美人ではなかったために)」学識を誇っていると評し[34]、評論家の中野孝次は「一言でいって実にいやな女」であり、『枕草子』も「あさはかな古典」であると述べている[35]。こうした傾向は1970年代ごろまで続いた[36]


注釈

  1. ^ 異本による。流布本では31首。
  2. ^ ただし定子ではなく一条天皇とのやり取りとする錯誤がある

出典

  1. ^ 渡邉美希 2022, p. 46.
  2. ^ 渡邉美希 2022, p. 33.
  3. ^ a b 榊原邦彦 1973, p. 21.
  4. ^ 角田文衞「清少納言の女房名」『王朝の明暗』東京堂出版、1975年
  5. ^ 枕草子研究会編集『枕草子大事典』勉誠出版、2001年
  6. ^ 岸上慎二『清少納言伝記攷』畝傍書房、1943年
  7. ^ 鈴木弘道 1986, p. 111-110.
  8. ^ a b c 角田文衛「清少納言の生涯」(『王朝の映像』東京堂出版、1970年)
  9. ^ a b 木村祐子 2017, p. 66-67.
  10. ^ 尊卑分脈
  11. ^ 角田文衛「清少納言の生涯」(『王朝の映像』東京堂出版、1970年)
  12. ^ 角田文衛「晩年の清少納言」(『王朝の映像』東京堂出版、1970年)390-430頁
  13. ^ 『御堂関白記』
  14. ^ 森公章 2017, p. 9-10.
  15. ^ 枕草子研究会 2001, p. 160.
  16. ^ 後藤祥子 (2019). “清少納言の居宅ー『公任卿集』注釈余滴”. 平安文学の謎解き-物語・日記・和歌 風間書房. 
  17. ^ 萩谷朴「清少納言の晩年と「月の輪」」(『日本文学研究』 20号、1981年2月)
  18. ^ 『勅撰作者部類』
  19. ^ a b 鈴木弘道 1986, p. 108.
  20. ^ 鈴木弘道 1986, p. 103.
  21. ^ 清少納言の歌碑”. 京都より愛をこめて. 2024年1月17日閲覧。
  22. ^ 青山一浪「阿波の尼塚」『旅と伝説』第7巻第2号、三元社、1934年2月1日、39-40頁、doi:10.11501/1483540 
  23. ^ 清少納言の墓所(天塚堂)”. 徳島鳴門 観音寺. 2020年3月16日閲覧。
  24. ^ 藤本宗利 2017, p. 4.
  25. ^ 藤本宗利 2017, p. 9.
  26. ^ 藤本宗利 2017, p. 15.
  27. ^ a b 藤本宗利 2017, p. 1.
  28. ^ 物集高量 1922, p. 661.
  29. ^ 宮崎莊平 2009, p. 11.
  30. ^ 宮崎莊平 2009, p. 74.
  31. ^ 宮崎莊平 2009, p. 62.
  32. ^ 有働裕 2016, p. 41.
  33. ^ 赤間恵津子 2003, p. 3.
  34. ^ 藤本宗利 2017, p. 2-3.
  35. ^ 藤本宗利 2017, p. 1-2.
  36. ^ 藤本宗利 2017, p. 2.






清少納言と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「清少納言」の関連用語

清少納言のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



清少納言のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの清少納言 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS