梶原武雄 梶原武雄の概要

梶原武雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/12 00:21 UTC 版)

梶原武雄(1954年)

経歴

新潟県佐渡郡畑野村(現:佐渡市畑野)に、商家の七人兄弟の長男として生まれる。父は碁好きで、姉みさをが父の中学の同級生で棋正社の藤原七司に習っていた影響で碁を覚えた。父の仕事の関係で一家で上京。11歳の時に知人の紹介で家の近かった関山利一に六子の試験碁を打ち、入門して通い弟子となった。その後関山の師匠格にあたる久保松勝喜代に六子で打って院生入りを認められた。

1937年入段。初参加の大手合で最年少棋士ながら第8位となり、「棋道」誌で本因坊秀哉との3子局を企画され勝利。この時期、師の関山の弟弟子にあたる半田道玄とともに研鑽した。1941年の第2期本因坊戦の関山利一と橋本宇太郎の挑戦手合で、関山が2局目で病気棄権となった際、当時五段の梶原が師の関山の代理で橋本と対戦するという案が持ち上がったが、実現しなかった。この直後の大手合での対戦では、梶原は橋本に勝つ。

1944年に、この頃右目がほとんど見えなくなっていたが召集され、中国戦線に出征。1946年に復員し、1947年に、日本棋院に不満を訴えて前田陳爾坂田栄男ら8棋士で囲碁新社を結成して、日本棋院を脱退。1948年に坂田が呉清源との三番碁に敗れた後、梶原も先番逆コミで呉に挑むが敗れ、単独で日本棋院に復帰、1949年に残る7棋士も復帰した。

この頃、藤沢秀行山部俊郎と並んで「戦後三羽烏」「アプレゲール三羽烏」などと呼ばれた。

1950年日本棋院関西棋院による東西対抗戦に六段で出場し、西軍の細川千仭七段に勝利。続く東西対抗の勝ち抜き戦では、瀬川良雄、炭野武司、鯛中新、本因坊昭宇に4人抜きして東軍勝利とした。1964年王座戦では決勝に進み、当時全盛の坂田栄男との三番勝負に2連敗で敗れる。1965年九段、名人戦リーグ入り。その後も1973年に全日本第一位決定戦挑戦者、1977年碁聖戦リーグで同率挑戦者決定戦進出、1983年に十段戦勝者組決勝進出など各棋戦で活躍。

1950年から54年まで日本棋院院生師範。木谷実の内弟子の道場が四谷に移転した時、その弟子達の研究会を梶原が始める。木谷門下の多くの棋士に加え、瀬越憲作門下の曺薫鉉らも参加し、大いに影響を受けた。また関山利一没後に関山一門による研究会にて指導者を務めた。

1965年に訪中囲碁使節団団長を務める。この時の副団長は林裕、また団員に工藤紀夫安倍吉輝がいた[2]。また日本囲碁連盟の囲碁通信教育(機関誌『囲碁研究』)で主任教授を務めた。

序盤を学問的探究心をもって深く研究し、「碁は序盤こそが学問、中盤は戦争屋に、終盤は能吏にまかせておけばよい」といった発言も残っている。またこのため、序盤に持ち時間を使い果たし、終盤で逆転されるといったことも多かった。長考派としても知られ、1960年王座戦の橋本昌二戦での「今日の蛤は重い」の一言は有名。TVのNHK杯などの解説では歯切れのいい「梶原節」が人気を呼んだ。2001年には「週刊碁」に、半生を綴った「石心一路」を連載。

仲間内の愛称は、その毒舌により森の石松から取った「イシ」。趣味は詩吟で、岳風流横山岳精から奥伝を授与されている。

2000年3月31日に引退。通算成績は、595勝458敗11ジゴ。

主な棋歴

受賞等

代表局

四人抜きで決着 東西対抗大碁戦勝抜戦第6局(1950年6月27-28日) 梶原武雄六段-(先番)本因坊昭宇

梶原武雄-(先番)本因坊昭宇 44-77手目
この頃から梶原は「ドリル戦法」と呼ばれるようになっている。東西対抗戦の勝ち抜き戦では、藤沢秀行1勝の次に出場し、3人を抜いて西軍の大将橋本宇太郎を残すのみとしていた。左下は大斜定石の新型。黒1(47手目)から進出を狙うが、白8のヤスリ攻め。黒も11と切って激戦となった。白20と整形したが、白24が問題で、黒25から29と形を崩しながらコウを狙われ、黒がコウ立てで左上隅を取り、白が中央を打ち抜く振り替わりとなった。白は下辺中央黒を攻めたてながら戦いが右辺に及んで、白の緩手で黒優勢となるが、中央黒を追撃して逆転。216手まで白中押勝。梶原は4人抜きで日本棋院勝利をもたらした[3][4]

坂田を追い詰める 第12期王座戦決勝三番勝負第2局(1964年10月15-16日)互先 梶原武雄八段 - (先番)本因坊栄寿名人

梶原武雄 - (先番)本因坊栄寿 75-114手目
当時名人・本因坊の坂田栄男と王座戦決勝で相まみえた。三番勝負第1局は先番梶原が優勢に進めたが坂田に逆転負けを喫する。第2局は梶原が白番で、左下は梶原定石。黒1(75手目)から黒9と左辺を荒らしに行くが、白10以下最強に迎え撃って、白40まで突入した黒は全滅してしまい、白が勝勢となった。しかしこの後右上で黒aに白bと出たのが無用の頑張りで、白は上半分を切り取られて逆転される。さらにその後に黒が中央で打ちすぎて再逆転。しかし梶原は1分碁の中で右下黒の死活を間違えて、無条件死のところをコウにしてしまい、黒の6目半勝。坂田が2-0で優勝となり、悲願の打倒坂田はかなわなかった。[3]

  1. ^ 『碁ワールド』2012年1月号
  2. ^ 安倍吉輝『対局ハプニング集』(日本棋院)P.81
  3. ^ a b 中山典之『昭和囲碁風雲録(下)』岩波書店 2003年
  4. ^ 藤沢秀行『昭和の名局 2 不滅の抗争』日本棋院 1980年


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