東都大学野球連盟 加盟大学(2023年秋季リーグ開始時点)

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東都大学野球連盟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/29 02:11 UTC 版)

加盟大学(2023年秋季リーグ開始時点)

1部リーグ

2部リーグ

3部リーグ

4部リーグ

かつて参加していた大学

その他のエピソード

応援団

活動規制

東都大学野球連盟では、同じ神宮球場を専有使用している東京六大学野球における東京六大学応援団連盟のように、野球連盟と密接な関係をもつ学生応援団連盟は存在しない。応援団・応援部については当該校野球部の直轄管理責任となっており、野球部の公認がある場合のみ応援活動が認められている。なお、全日本学生応援団連盟を参照。

過去の経緯

昭和30年代後半から40年代にかけた学園紛争期を中心に、他大学野球連盟含め東都大学野球連盟では、リーグ戦野球応援に絡んだ球場内外での各校応援団同士の乱闘傷害事件が相次ぎ、リーグ運営にまで悪影響を及ぼした。

特に1970年5月には亜細亜大学の応援団が[22]、さらに9月には日本大学の応援団が、リーグ戦の応援に詰めかけて暴力事件を起こしたことから、同年9月25日、連盟側は緊急理事会を開き全21校(当時)の応援団に対し球場での応援を認めない処分を下した[23]。その後、組織的な応援については、応援団・応援部の管理指導責任が当該野球部の責任となり、野球部の公認がある場合のみ応援活動が認められているが、これは前述のような当時の反省の上にたった結果である。

使用楽器の規制

神宮球場・神宮第二球場は、自然環境保護(主に騒音の観点から)の都合から、楽器使用応援の規制を行なっており、東都大学野球連盟としてもこの通達に沿った応援規制を敷いている。スタンドでの応援活動で、規制制限外の応援への注意・指導は、球場内においては球場職員が直接これに当たっている。(詳細は明治神宮野球場の当該項を参照)

応援リーダー台

使用している応援リーダー台は、東京六大学応援団連盟の所有物であるため、特別な事情がない限りは応援団同士の個別借用ではなく、借主は東都大学野球連盟として貸料を一括納入している。各校応援部・応援団は、野球部経由で東都大学野球連盟に納入するか、或いは学校によっては野球部・大学側が諸経費の一部として納入している。ただし応援組織のあり無しや応援形態の違いなど学校により事情が異なるので、台の使用と貸料の発生は、あくまで事前の申し出による。

伝統の一戦

早い時期から入れ替え戦制度を採っていた東都大学野球連盟では、東都と同じ旧制大学野球リーグ以来から続く東京六大学野球での早慶戦や、現在の関西学生野球の関関戦同立戦のような知名度の高い伝統的な組み合わせでの対戦カードは存在し得なかった。しかし、それでも一部の関係者やファンの間では伝統の一戦と呼ばれる対決が存在する。以下に例を記す(伝統的な定期戦交流をしている場合でも当該校同士でのみのものは対象外)。

  • リーグ創世期の専修大学・中央大学・日本大学の3強時代の流れを汲むもの(東都御三家との異称もある[24]
    • 専修大学 対 中央大学
    • 中央大学 対 日本大学
    • 日本大学 対 専修大学
  • リーグ創世校同士のライバル校の流れを汲むもの
    • 東京農業大学 対 國學院大學[25]
    • 國學院大學 対 日本大学[26]
  • 昭和後半期での優勝争いにまつわるもの
    • 東洋大学 対 駒澤大学
    • 東洋大学 対 亜細亜大学
    • 亜細亜大学 対 駒澤大学

これら東都の中でも比較的人気の高い対校戦を集め固定した試合をオフシーズンに準公式戦として開催、定期戦化していこうという動きが一部関係者の中で存在していたこともある。

マスコミ等での扱い

古くからの有力校・強化校が多く、その上でリーグ戦が1部から4部まであり、入れ替え戦を通してのチームの浮き沈みの激しさもあいまって、頻繁に「戦国東都」と形容される。また、歴史や過去の全国大会での成績においても関東での大学野球界でしばしば双璧の存在として対比される東京六大学リーグとの関係において「人気の六大学、実力の東都」といわれてきた。80年代には当時のテレビ神奈川や優勝に関わる試合をNHKラジオ第1放送(関東地区)が中継していた時代もある。2000年代初頭にはJSKYスポーツが主に同日神宮球場でヤクルト戦のナイター放送がある日に、また1シーズンのみスカイAが中継したこともある。

またマスコミではないが、公式スポンサーのミニミニグループのひとつである株式会社ミニミニ城西の学生支援部が展開するブログ(SHIEN-BLOG.)にて、1部の試合を中心に定期的に試合内容が報じられている。

奇跡の優勝

1958年秋季1部リーグ、学習院の健闘により大混戦となった。それまで東都1部リーグは専修・日大・中央の3校しか優勝しかなく、学習院は1950年に連盟に加盟し翌年1部に昇格したが万年下位に低迷し、1・2部入替戦を戦い抜き1部を死守していたチームであった。その学習院がリーグ終了時日大・中央と共に7勝5敗の勝ち点3で首位に並び、巴戦によるプレーオフが行われることとなった。ところがプレーオフは二廻りしても3校1勝1敗で決着がつかず、連盟では三廻り目は行わず優勝預かりとする意見が支配するに至ったが、学習院が強硬に三廻り目開催を要求し、結局日大・中央に2勝した学習院が専修・日大・中央以外で初の優勝校となった[27]。この後学習院は1961年を最後に1部より降格、1982年秋季以降3部に降格した。

2015年の再編問題について

2015年9月、本大会を主催する東都大学野球連盟事務局長の白鳥正志が、全21チームを、1部12、2部9に再編する案を検討していることを明かした。

その理由として、2014年より2部リーグの主会場とされた明治神宮第二球場が老朽化ないし明治神宮外苑の再開発計画を理由として使用できなくなったため、3部以下と同じ要領で、2部加盟大学のグラウンドでのホーム・アンド・アウェー、および予備会場として町田市の小野路公園野球場(東京六大学リーグの予備日である月・火曜日に試合が行われないことが確定した場合は明治神宮球場)を利用することから、移動負担が大きくなってしまうということが問題となっていた。

ただ、現在の3戦2勝制(引き分け再試合)を維持すると、試合数が多くなるため、1回総当たりによる勝率制なども検討されていたが[28]、試合数や使用球場の問題もありその後再編問題は進んでいない。

なお、他に場所を移してリーグ戦が実施された例として、上述のように東都大学リーグ史上に残る接戦といわれた1958年の1部秋季リーグ戦で、中大、日大、学習院大の3校が同率で並ぶ三つ巴の優勝決定戦が3回目までもつれた際に旧駒澤球場で実施された例がある。1回目、2回目とも3校1勝1敗となり決まらず、3回目が行われ学習院が日大を下し、中大との対戦が神宮球場から場所を移して旧駒澤球場で行われた。この試合で学習院が中大を下し初のリーグ優勝を決めた。皇太子(現 明仁上皇)の出身校であることや試合観戦もしていたため、試合結果はAP電で世界に流された[29]

東都六大学

一部の新聞や雑誌、ネット上のサイト内記述や東都所属校野球部OB、さらには著名な野球解説者[30]でさえも稀に「東都六大学」という用語を使用しているケースがある。さらにはかつては国会答弁の中でもその表現が使われたことがある[31]。ただし、所属校も6校限定ではないことから、東都大学野球連盟では公的にも、また(国内の一部の連盟に見られるような)ローカルな愛称や通称としても「六大学」の呼称は使用しておらず、完全にスラングである。

歴代の珍記録・初記録・珍エピソードなど

  • 1959年 春季、1部の中央大が部員の不祥事[32]でリーグ戦を1季間出場停止(2部に自動降格)。
  • 1966年 春季(4月26日)の日亜1回戦で起きた両校応援団同士の乱闘事件の顛末に両チームが巻きこまれ一時は両校出場辞退・2部転落危機の前代未聞の事件が発生[33]
  • 1984年 春季、2部の拓殖大学に出場選手の資格違反[34]が発覚し、1年間(2季)の出場停止(4部に順次降格)。
  • 1984年 春季(5月31日)の2部リーグ戦において、優勝を決定する最終直接対戦カード(青学大と専大)が第4戦までもつれ、当時1部リーグ戦を凌ぐ盛り上がりを見せ、かつ球場が空いていたことなどを連盟側に考慮され、最終戦が神宮球場で行われた(過去にもこのとき一度のみ)。
  • 1985年 秋季、1部の国士舘大学に部員待遇に学生野球憲章違反の疑い[35]がかかり、1年間(2季)の出場停止(3部に順次降格)。
  • 1985年 秋季(10月16日)、54年のリーグ史上初のプロ野球の事情により同日開催予定の第二試合を中止(同日開催のヤクルト-阪神戦による阪神久々の優勝の可能性の混乱を受けての四谷署からの要請による球場側との協議の結果)。
  • 1988年 1部リーグ戦で神宮第二球場を使った最後の年度。
  • 1992年 春季の亜青第3戦、亜大内野手があるプレーに激高し走者を蹴り上げる。あわや乱闘になりかけるが試合続行。試合後に亜大側の反省文提出で収束。
  • 1993年 秋季に1部開幕戦が3日連続で雨天順延(4日目にやっと開幕)。
  • 1993年 秋季の2部開幕戦の國學院大投手目当てにプロスカウト40人押しかける。
  • 1993年 春季に1部リーグ史上初のルーキー投手開幕完投勝利(日大、谷村)。
  • 1993年 春季に青国1回戦、國學院大打者走者が一塁走者を1部リーグ史上初の追い越しアウト。
  • 1994年 秋季に青学大の河原井監督が現役監督としては1部史上初のコーチスボックスに立つ。
  • 1997年 秋季に1部リーグ史上初の代打逆転満塁本塁打(東洋大、徳田)。
  • 2005年 2004年末に起きた亜細亜大学が野球部員の不祥事[36]絡みで春季リーグ戦の間、出場停止処分。

連盟創設に関する諸説

東都大学野球連盟発足の経緯は、参考となる一次資料に乏しいため、いろいろな異説がまことしやかに流れているのが現状となっている。以下の内容はこうした状況を踏まえた上で、比較的信用できる文献の中に記述されている説をあくまで各論として列挙・紹介する。

  • 1910年(明治43年)5月、中央大学有志の野球チームが明治大学の有志チームと三菱ケ原で対戦した(1勝1敗)[37]。中央大学で大学公認の野球部が発足するのは1930年であるが、それ以前から野球を愛好する学生集団が存在していたことがわかる[38]
(補足):野球評論家の大和球士は明大有志チームと対戦した後の中央大学について「その後に、正式な野球部を発足させないまま、校内の野球熱が冷却してしまったことは惜しい」と述べている[39]
日本大学と國學院大學の六大学リーグ加盟見送りを報じる『東京朝日新聞』(1930年2月25日付朝刊3面)
  • 日本大学や國學院大學、専修大学は東京六大学野球連盟へ加盟申請を度々行っていたが拒否され続けたため、やむなく他の大学を誘い東都大学野球連盟(当時は五大学野球連盟)を設立した[3]
(補足):1929年に日本大学と國學院大學は六大学各校と試験的に1試合ずつ対戦したが[40]実力不足と判断され(日大は東大にも3-5で敗れた)、今後の隆盛を待って加盟を歓迎するとしながらも正式加盟は実現しなかった。
  • 東都の母体である新五大学野球連盟が創設される以前、東京帝国大学民法法典論争をしていた中央大学は[要検証]東京六大学野球連盟への加盟要請を拒否[要出典]、同じく拒絶した日本大学・専修大学とともに東京六大学野球連盟に対抗する野球連盟を作ることを発起した。これに東京帝国大学と農学分野で論を競っていた東京農業大学が参加、日本大学と関係が深かった國學院大學も参加することになり、五大学野球連盟が結成された。さらにしばらくして、官立商科大学として東京大学とライバル的な関係にあった東京商科大学も合流した。
(補足):中央大学が当時法典論争が元で東京帝国大学とあらゆる分野で同席することを断固拒絶する学内風潮が強く、そのため現在の東京六大学からの加盟打診を検討する段階で自ら拒否したことが幾つかの文献[要出典]の記述に残っている。また、東京商科大学が東京帝国大学への吸収合併騒動[41]の影響によって当時、東京大学との関係が悪化していたことがうかがえる。さらに東京農業大学も農学に対する考え方[42]をめぐって東京帝国大学と対立状態にあった。
東京帝大は六大学リーグに正式加盟する前から早稲田との対戦実績があった(『東京朝日新聞』 1924年6月15日付朝刊7面)
  • 当時(現東京六大学野球連盟加盟の最終六校が確定する1925年より前)の関東の大学野球で東京六大学各校に準じる実力を持っていた大学は、日本大学と國學院大學の2校であったという説と[要出典]、そうではなく、中央大学・専修大学・日本大学・東洋大学・上智大学などであり[要出典]、國學院大學や東京商科大学はそれほどではなかった。
(補足):これらは関係者間での伝承やそれを元にした語り草程度の逸話でしかないため、信憑性の是非は今となっては問うのは難しいが、一般的にもうわさの類にありがちな、伝承者の自己顕示・自己満足的な意思が多分に含まれている可能性が高い[43]
  • 当時の早稲田大学野球部は、どちらかといえば大学野球連盟(現在の東京六大学野球連を指す)の拡大に対して他校に比べると積極的・発展的な考えを持っていたが[要出典]、既存の他加盟校の反対(とりわけ明治大学や東大が反対したといわれている)[要出典]によって日本大学や國學院大學などをはじめとした他大学の新規加盟に至らなかったことを残念に思い、後日の新連盟(新五大学野球連盟)設立には積極的な支援をした。ちなみに、新五大学野球連盟の発足式は早大戸塚球場で実施をされているが、これもその早稲田大学側の意思の表れの一例とされている。
(補足):後年に出版された『六大学野球』(佐藤文明著、現代書館)の中では、東大加盟に至るまでとその後の加盟校の選定・決定には、当時の早大野球部監督の飛田忠順の意思が最終的には大きく影響していたため[44]、早稲田も他校(現在の六大学野球連盟加盟校以外の大学)の加盟には終始一貫して反対の立場であったという上記説とは対極になる記述がなされている。また、同書にはさらに「六大学成立には必然性があって最初から集まるべくして集まった6校であった。」という旨の記述がされている。
  • 五大学連盟成立後も六大学との連携あるいは合併を模索する動きは続き、1936年には六大学連盟に対して
  1. 六大学側前シーズンの最下位チームと五大学側優勝チームの対戦
  2. 五大学連盟の六大学連盟加盟
を要望した[45]。しかし、六大学側は「試合数が増すので学業にも妨げとなり、文部省としても許可しないだらう」と回答し、六大学連盟への加盟を拒絶した[46]

  1. ^ a b プロで活躍したいなら東都!? Numberweb 2011年9月5日
  2. ^ 『一橋大学硬式野球部七十五年史』 118-119頁より
  3. ^ a b c d e 赤尾好夫 『野球大観』 旺文社、1949年、61頁
  4. ^ 『東京朝日新聞』 1929年2月19日
  5. ^ 『東京朝日新聞』 1930年2月25日
  6. ^ 『東京朝日新聞』 1931年4月3日
  7. ^ 連盟事務所は専修大学に置かれた(横井春野 『日本野球戦史』 日東書院、1932年、235-236頁)。
  8. ^ 『東京朝日新聞』 1931年4月30日
  9. ^ 実力の東都が名門の六大学を駆逐!? Numberweb 2013年6月26日
  10. ^ 戦時学徒体育訓練実施要項を制定(昭和18年3月30日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p45 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  11. ^ 『週刊ベースボール増刊 大学野球』秋季号でも創立70周年を記念して誌上初めて、2008年現状まででも唯一となる東都の特別企画を実施。
  12. ^ 来春1部リーグは7校 東都大学野球”. 時事通信社 (2020年12月22日). 2021年1月9日閲覧。
  13. ^ 球場の優先使用に関しては明治神宮野球場にも詳細を記述。
  14. ^ 矢崎健一 (2022年10月1日). “ドラフト候補を次々に送り出す東都大学リーグが進める大改革、いったいなぜ?”. JBpress. https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/72037?page=4 2023年3月30日閲覧。 
  15. ^ 球場狭い…東都2部リーグ、神宮第2を来春から使用せず(サンケイスポーツ2013年11月16日 2014年4月10日閲覧)
  16. ^ 神宮第二で開催せず、来春は当該校で土日開催 東都2部(産経新聞2013年12月19日 2014年4月10日閲覧)
  17. ^ 東都大学野球連盟・2部リーグ日程表
  18. ^ 開会式や閉会式の入場行進曲の演奏は、かつては所属校の吹奏楽部やブラスバンドに依頼していた時期もあったが近年は場内放送になっている。
  19. ^ 過去はかなりの部分を外部招聘の審判員に依存していたが、年々OBの採用度合いが高まっている。
  20. ^ 1部リーグの新人戦は、交流戦が始まった当初は、交流戦のある年度は新人戦が開催されなかったが、1部リーグ所属校からは、交流戦よりも1部リーグ新人戦の重要性を求める意見が多く、交流戦のある年度も実施することが復活した。
  21. ^ それ以前のリーグ創設時から昭和までの優勝チーム・順位・入れ替え戦の結果は下記を参照。
    東都大学野球連盟 一部リーグ歴代優勝校(全国大学野球総合情報サイト大学野球~神宮への道~)
    東都大学野球連盟 二部リーグ歴代優勝校(全国大学野球総合情報サイト大学野球~神宮への道~)
    東都大学野球連盟 三部リーグ歴代優勝校(全国大学野球総合情報サイト大学野球~神宮への道~)
    東都大学野球連盟 四部リーグ歴代優勝校(全国大学野球総合情報サイト大学野球~神宮への道~)
  22. ^ 亜大応援団なぐり込み 球場で木刀かざし 芝工大生10人けが『朝日新聞』昭和45年(1970年)5月23日朝刊 12版 22面
  23. ^ 東都大学野球連盟 21校応援団に処分『朝日新聞』1970年(昭和45年)9月26日朝刊 12版 22面
  24. ^ asahi.com:「東都の御三家」すべてが姿消す 大学野球 - スポーツウェブ魚拓保存版
  25. ^ かつて両校が常磐松御料地跡地に存在し、両校が隣接していた
  26. ^ 皇典講究所の後身である國學院大學と皇典講究所の附属機関が発祥の日本大学
  27. ^ 『神宮の奇跡』門田隆将著 講談社文庫
  28. ^ 東都大学野球リーグ、1部と2部の統合検討(朝日新聞2015年9月3日 9月23日閲覧)、東都大学野球 来春1、2部統合も 背景に2部の球場問題(スポーツニッポン2015年9月3日 9月23日閲覧)
  29. ^ あの感動をもう一度・・・硬式野球部 硬式野球部 栄光の11・24学習院桜友会インフォメーション)
  30. ^ http://emoyan-yan.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_d0cb.html 江本孟紀 エモやんの“いごっそう”日記 2007年5月29日 (火) タイのエース
  31. ^ 衆議院会議録情報 第048回国会 体育振興に関する特別委員会 第4号
  32. ^ 遠征中に滞在先の旅館で丹前を盗んだことが発覚。
  33. ^ 事件を受けた最初の連盟会議の席上、遺憾に感じた両校野球部からの当該シーズンのリーグ戦辞退の意を受ける形でいったん了承し、次季は両校が2部に落ちることも決定した。その後、報告を受けた全日本大学野球連盟の判断(あくまで応援団同士の乱闘であり、学生野球憲章違反には抵触しない)による差し戻し審議の結果、一転して両校のリーグ復帰(リーグ戦の継続)が決まった。なおその結果、このシーズンは日大が優勝を収めた。
  34. ^ 連盟では禁止されていた短期大学部の学生を登録していた。
  35. ^ 当初は、当時の野球部監督の大学当局側による解雇に端を発した、大学当局側とそれに反対する野球部員との騒動報道に始まったことであったが、それが学内の派閥争いに絡む問題であったことから、野球部員の学内における待遇が学生野球違反ではないかとのリークによるマスコミ報道で事が大きくなり学生野球協会や連盟を巻き込んだ騒動に発展した。(当時の各報道各誌記事による。)
  36. ^ ある部員が通学途中の電車内で痴漢行為の疑いで逮捕。同時に乗り合わせていた他数名の部員も一時逮捕勾留されたが、主犯格の一人のみが起訴、他は不起訴となった。起訴された部員は後に執行猶予付きの有罪で結審したが、前代未聞の事件として、連盟側は1年以上の出場停止を含むさらなる厳しい処分を課そうとしたが、学生野球協会審査室からの差し戻しにより、一季間(半年)の出場停止で決着した。
  37. ^ 明治大学百年史編纂委員会 『明治大学百年史』 第三巻 通史編Ⅰ、学校法人明治大学、1992年、565頁
  38. ^ 『中央大学誌』(中央大学、1935年)には1930年以前から野球部はあったが、大学から公認されていなかったとの記述がある(同書、17-18頁)。
  39. ^ 大和球士 『真説 日本野球史 《昭和篇 その1》』 ベースボール・マガジン社、1977年、297頁
  40. ^ 朝日新聞社運動年鑑』 昭和5年度、38頁
  41. ^ 申酉事件を参照のこと
  42. ^ 東京帝国大学が学問としての農学を重視したのに対し、東京農業大学は「農学栄えて農業滅びる」と唱えていた。
  43. ^ 大学組織として中央大学野球部が公認されたのは東都の前身である新五大学野球連盟結成の前年(1930年)4月である(『中央大学百年史』 年表・索引編、2004年、166頁)。ちなみに農大は1910年、國學院大は1920年、日大は1923年、専修大が1925年となっている(いずれも学校公認組織としての記録をもって創部年としている)。今に伝わる伝承の中にあるような中央大学が東大と共に当時の東京五大学野球連盟(現六大学野球連盟)からの加盟打診を受けたと思われる1921年〜1925年の間、正式な野球部が存在しなかった当時の中央大学に、果たして野球を愛好する学生集団が存在していたのか否か、あったとしてそれが果たしていかほどの技量であったかは今や知る術がない。創部年が古いチームの技量が必ず高いわけではない(一般的な傾向としてはあるが、衆目一致の事実としてはそのような理論も法則も存在していない)が、一般論として、既に学校公認の野球部となった学校公認チームと経験者の指導者もいない愛好者集団がそれらのチームと同等、あるいはそれらに並ぶような技量を有していた可能性は高くないと考えられる。ただし、広い意味での大学野球黎明期に当たるこの時期、1925年以前とそれ以降の東都の前身である新五大学野球連盟が結成される1931年に至る6年の間の各校の状況は大きく変わっている可能性があり、東京六大学の結成に刺激を受けた各校が、その後の技量向上・整備をみるに至って新リーグ(五大学野球連盟)結成の機運が高まったと考えられる。
  44. ^ 飛田は立教大学のリーグ参加を後押ししたのは自分だと述べている(『熱球三十年中央公論社、1934年、376頁)。
  45. ^ 『東京朝日新聞』 1936年3月6日
  46. ^ 『東京朝日新聞』 1936年4月26日


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