旧石器捏造事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/12 13:29 UTC 版)
概要
藤村は1970年代半ばから各地の遺跡で捏造による「旧石器発見」を続けていたが、石器を事前に埋めている姿を2000年(平成12年)11月5日付の「毎日新聞」朝刊にスクープされ、不正が発覚した。これにより日本の旧石器時代研究に疑義が生じ、中学校・高等学校の歴史教科書はもとより大学入試にも影響が及んだ日本考古学界最大の不祥事となり、海外でも報じられた。火山灰層の年代のみに頼りがちであったことなど、旧石器研究の科学的手法による検証の未熟さが露呈された事件であった。
なお、縄文時代以降では明確な遺構が地下を掘削して造られており、土の性格から直ちに真偽が判断可能なため、捏造は不可能である。
経緯
2000年11月の発覚当時、「捏造」を行っていた藤村は民間研究団体「東北旧石器文化研究所」の副理事長を務めていたが、彼が捏造を開始したのは1970年代半ば、1975年に結成された宮城県の旧石器研究グループ「石器文化談話会」にアマチュアの考古学愛好者として近づいた時からだった。同会は、日本における前期旧石器の存在の可能性をかねてより唱えていた芹沢長介東北大学教授の門下生・岡村道雄をリーダーとした考古学者らと、藤村のような在野の考古学愛好者、学生らから成る発掘調査チームだった。彼は捏造発覚までの約25年間、周囲の研究者が期待するような石器を、期待されるような古い年代の土層[注 1](ローム層)から次々に掘り出して見せ、そのことによってグループにとって欠かせない人物として評価され、後に「神の手」と呼ばれるまでになった。また、そうした「考古学的大発見」を町興しや観光につなげたい地元関係者からも歓迎された。
しかし、「発見」された遺物の9割方は、彼自身の手によって表面採集されたり発掘されたものであり、他人の手によって発掘されたものは、彼があらかじめ仕込んでおいたものとされている。彼が掘り出して見せたり、埋められていた石器は、自らが事前に別の遺跡の踏査を行って集めた縄文時代の石器がほとんどであると考えられている。ただし、それらの遺跡は東北地方のどこかのはずだが、完全に追跡され、突き止められるには至っていない。捏造された「偽遺跡」は、宮城県を中心とし、一部北海道や南関東にまで及んでいる。
毎日新聞のスクープで指摘されたのは、宮城県の上高森遺跡および北海道の総進不動坂遺跡だったが、彼のかかわった全ての遺跡について再点検が行われ、彼のかかわった「石器」の多くに発掘時の「がじり」[注 2]ではありえない傷や複数回にわたって鉄と擦過した痕跡である「鉄線状痕」などが認められた。また一部の遺跡について再発掘が行われ、掘り残されていた捏造石器が発見されるに及び、捏造が確定するに至った。
このため、上高森遺跡をはじめ、馬場壇A遺跡・高森遺跡など、多くの遺跡が旧石器時代の埋蔵文化財包蔵地(遺跡)としての認定・登録を取り消された(上高森遺跡は包蔵地そのものを抹消、高森遺跡等は別の時代の包蔵地に変更)[1][2][3][4]。また、国の史跡に指定されていた座散乱木遺跡は史跡指定を解除された[5]。
「東北旧石器文化研究所」は民間の研究団体として1992年に設立され、2000年8月24日に宮城県知事より特定非営利活動法人として認証された(理事長・鎌田俊明(臨済宗妙心寺派不磷寺15代4世住職[6]、学校法人不磷寺学園理事長・八幡花園幼稚園園長[7]))。同研究所は鎌田・藤村らの「石器文化談話会」によって設立された法人組織で、談話会・研究所とも藤村らの活動拠点であった。事件発覚後、藤村は組織を離れたが、藤村の記者会見にも同席した理事長の鎌田俊明と指導者の梶原洋(芹沢長介東北大学教授の門下生。東北福祉大学教育学部教育学科教授[8][9])は2002年、日本考古学協会編『前・中期旧石器問題調査研究特別委員会報告(II)』(2002年5月)の第VI部「旧石器捏造をなぜ見逃したか」第1章(173~185頁)において連名で、
東北旧石器文化研究所は、当面、その責任を果たすために、最も大きな責任の取り方として、あえてきちんとした組織の特定非営利活動法人のまま、各種の検証に全面的に協力し、未刊行の5遺跡の報告書を速やかに作成することであると考えている。
責任の分散や恨み言を言うわけではなく、事実を明確にし、その反省の上に立って、この事件によって失われた考古学への信頼を取り戻し、日本の旧石器研究の再構築に少しでも寄与するために、石器文化談話会、東北旧石器文化研究所と続いた研究の負債を、是非多くの方々のご協力で取り払いたいというのが、我々に今課せられた責任だと思う。
と表明。東北旧石器文化研究所の名義で『上高森遺跡発掘調査報告書:宮城県築館町』(2002年5月)、『袖原3遺跡・中島山遺跡・一斗内松葉山遺跡発掘調査報告書』(2003年3月)、『ひょうたん穴遺跡発掘調査報告書:岩手県岩泉町』(2003年12月)を作成したが、2003年12月に報告書刊行を終えると、翌2004年1月には石器文化談話会・東北旧石器文化研究所ともに解散している[10]。
本事件を取材した毎日新聞取材班が、2001年、第49回菊池寛賞を受賞した[11]。
影響
日本列島の「前・中期旧石器」研究は、そのような古い時代の石器は日本にはないだろうという批判を当初は浴びていたが、藤村の発掘成果によって強力な裏づけを得て、1980年代初頭には確立したと宣言され、捏造発覚前は日本の旧石器時代の始まりはアジアでも最も古い部類に入る70万年前までに遡っていたとされた。しかし捏造発覚により、藤村の成果をもとに認められていた日本の前・中期旧石器遺跡の全てである162遺跡が遺跡遺物の認定を取り消され[12]、東北旧石器文化研究所は「学説の根幹が崩れた」と解散に至っている。さらに、捏造遺跡が学会から抹消されるのみならず日本史の検定済教科書の石器に関する記述さえも消されるに及んだ。
また、中国、韓国、北朝鮮といった歴史教科書問題で日本と対立している国々は、それぞれの国内マスコミで本事件を「日本人が歴史を歪曲しているのが証明された」「一研究家だけの問題ではなく、日本人の歴史認識そのものに原因がある」と大々的に報道した[13]。また、藤村の捏造発覚の翌年の2001年、週刊文春が大分県の聖嶽洞穴についても捏造の疑いありと3度にわたって誌面で展開し、この影響で発掘責任者であった賀川光夫が文春に対し、抗議の自殺をする事態が発生した。
注釈
出典
- ^ 宮城県「旧石器発掘ねつ造関係遺跡の検証調査結果・表7」
- ^ 宮城県「旧石器発掘ねつ造関係遺跡の取扱い」
- ^ 宮城県遺跡地名表(宮城県)
- ^ 宮城県遺跡地図情報トップ(宮城県)
- ^ 文化庁・第18回文化審議会文化財分科会議事要旨(2002年11月15日)史跡指定解除の官報告示は2002年12月9日付け。
- ^ 沿革臨済宗妙心寺派 小松山 不磷禅寺
- ^ 2022年現在もこの職にある。 学校法人 不磷寺学園 八幡花園幼稚園一般社団法人宮城県私立幼稚園連合会
- ^ 2023年3月退職。 教育学科【学科報告】梶原洋教授の最終講義が行われました2023年3月20日 東北福祉大学
- ^ 同教授には問題発覚後の検証と報告も含め本件に関わる論文等が多数あるが、業績表には一切記載されていない。 研究者情報 梶原洋教員業績 東北福祉大学
- ^ 「神の手」にだまされた研究者、「お前はグルかバカか」迫られた問い…2000年11月「あれから」<20>(1)(2)(3)2022年2月13日 読売新聞オンライン(池田寛樹)
- ^ “受賞履歴”. 毎日新聞. 毎日新聞社. 2023年9月7日閲覧。
- ^ N・ナウマン『生の緒 縄文時代の物質・精神文化』言叢社、2005年、294頁。
- ^ 原田実 『トンデモ偽史の世界』 楽工社、2008年、237-240頁。
- ^ 小田静夫. “旧石器遺跡捏造事件をあらためて問う”. 考古学研究会. 2023年6月15日閲覧。(『考古学研究60の論点 : 考古学研究会60周年記念誌』テーマ46 旧石器遺跡捏造事件をあらためて問う(小田 静夫))
- ^ 旧石器発掘ねつ造 ~今何を思う~ - TBS
- ^ a b 小田 & T. KEALLY 1986, p. [要ページ番号].
- ^ インターネットにおける論文不正発覚史 (PDF) 田中嘉津夫, Journal of the Japan Skeptics, 24号, 4-9 (2015)
- ^ “岩手・金取遺跡が国内最古 石器出土層9-8万年前”. 47NEWS. 共同通信 (2003年7月6日). 2011年1月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年1月14日閲覧。
- ^ “島根・出雲の砂原遺跡の石器、「日本最古」に再修正”. 日経新聞. 日本経済新聞社 (2013年6月7日). 2021年7月22日閲覧。
固有名詞の分類
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