日中共産党の関係 1966年の日中共産党の決裂について

日中共産党の関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/31 01:46 UTC 版)

1966年の日中共産党の決裂について

日本共産党の大型代表団の派遣ともの別れに終わった宮本・毛会談

一九六六年二月、日本共産党中央委員会は、ベトナム侵略反対の国際統一戦線の結成を願って、ベトナム、中国、朝鮮の三カ国の共産党、労働党と会談するために、大型の代表団を送ることになった。一行は2月9日に福岡の若松港から中国の貨物船で上海に向かい、上海で予備的な会談を行った後に、2月17日にハノイに入った。ハノイに10日間滞在し、共同コミュニケに調印し、2月28日に北京に到着した。北京に1週間滞在して4回にわたって中国側と会談したが「アメリカのベトナム侵略に反対する国際統一戦線」か、「反米反ソの統一戦線」かで双方の主張の隔たりが大きく、共同コミュニケにつながらないまま、一行は朝鮮に向かった。3月11日に平壌に着き、21日に共同声明を発表して、同日北京を経由してそのまま帰国するつもりだったが、中国側から共同コミュニケを発表しようという提案があった。会談では中国側がソ連を名指しで批判するよう提案したが、日本共産党は同意せず、双方の一致点を三千字のコミュニケにまとめ上げた。一行は上海にいる毛沢東を訪れて最終的にコミュニケを承認することになっていたが、宮本らはこの会談は形式的なもので、コミュニケはそのまま了承されると思っていた。ところが、宮本らを迎えた毛沢東は、コミュニケの内容が軟弱だと批判し、コミュニケは発表されず、毛沢東は「この会談はなかったことにしよう」と言い、宮本らはそのまま帰国した[16]

日中共産党の路線対立の表面化

帰国した宮本は4月27日と4月28日に第四回中央委員会を招集。その席上宮本は「毛沢東は老衰して頭がぼけてしまっている。そのうえ思いあがって党内でも孤立している」と毛沢東を批判し、以降第10回党大会を目指して明確な反中路線に転換した[17]毛沢東一派の極左冒険主義」への批判が『しんぶん赤旗』紙上に載るようになり、[要出典]「1966年から1967年(昭和42年)にかけては西沢隆二ら中国派の中堅幹部30数名が除名された[17]

中国共産党は宮本を「修正主義者」と認定し、日本共産党を「宮本修正主義集団」と批判するようになった[12]。1966年10月には日中友好協会が日本共産党派と非日本共産党系で分裂し、後者は「日中友好協会❨正統❩本部」を結成した。続いて日本アジア・アフリカ連帯員会も日本共産党派と非日本共産党系に分裂した。日本ジャーナリスト会議新日本婦人の会でも両派が対立し、分裂した。日本共産党の不破哲三は、中国共産党は日本共産党を日本の政界で孤立化させたり、内部分裂させるために他の政党との関係を利用した工作活動も行ったと主張している[18]

1967年3月2日の善隣学生会館事件の際に中国留日学生後楽寮自治会側が撮影した「善隣学生会館を武力制圧した日本共産党・民青同盟ゲバルト部隊」とされる写真

対立を決定的にした事件

東京都文京区善隣学生会館[注釈 4]は、昭和10年(1935年)に当時「満州国」皇帝だった溥儀寄附行為によって設立された満州国留日学生補導協会が中国人留学生寮の満州国留日学生会館として建設したものである。日本の敗戦後、旧外務官僚らによって設立された財団法人善隣学生会館[注釈 5]に所有権が引き渡されようとしたが、会館は中国の財産であると主張する中国人学生や在日華僑との間で所有権をめぐる紛争が1952年から1962年まで続き、1962年2月に和解が成立し、財団法人の管理権を認めるとともに、会館は中国人学生寮および中国文化センターとして、もっぱら使用することで合意した。これを機に、日中友好運動に関係のない賃借人は退去することになり、日本中国友好協会は日中友好運動のまとめ役として、同会館内に事務所を構えることになった。ところが、同協会の分裂後、会館に残った日中友好協会は中国との交流を妨害する姿勢を強め、これに反発した会館内の中国人寮生が、壁新聞を張って、日中友好運動を行わない日中友好協会は偽の日中友好協会だから、会館を退去するべきと主張した。1967年2月28日に、壁新聞を日中友好協会の職員が破り、協会事務所内に入ったので寮生が事務所に行って抗議したところ、日本共産党が事務所を襲撃されたとして、500名の民主青年同盟員などで会館を包囲し、また事務所内にヘルメットやこん棒などの武器を持ち込んだ。3月2日に、日中友好協会の事務所から出てきたヘルメットとこん棒で武装した部隊が、正当防衛を口実に、事務所の付近にいた寮生らをこん棒で殴打し、在日中国人学生や支援の日本人に重傷者7人を出す流血事件善隣学生会館事件が起きた[19][20]

同年8月には北京空港事件があり、北京を退去しようとした日本共産党員2名が中国の紅衛兵や日本の留学生らに集団暴行された。こういった事件により日本共産党と中国共産党は完全に対立関係となった。


注釈

  1. ^ これより早く結成されたアジア地域の共産党は、イギリス領インド帝国でのインド共産党オランダ領東インドでの東インド共産党がいずれも1920年結成である。また、ソ連の介入で1924年に成立した社会主義国モンゴル人民共和国の支配政党となったモンゴル人民党は1920年に設立され、1924年の人民共和国成立とともに一党支配を行うモンゴル人民革命党となったが、この党は共産党は名乗らなかった。
  2. ^ 公示前の同党勢力は4議席だった。同選挙での共産党公認候補の総得票数は298万票で、得票率は9.84%。
  3. ^ レッドパージによる公職追放などの影響で、公示前勢力は3年前の当選者の35議席から22議席にまで減少していた。得票数は89万票、得票率は2.54%で、得票数は約3割、得票率ではほぼ4分の1になった。
  4. ^ 1984年に建て直されて日中友好会館と名称変更
  5. ^ 1978年に財団法人日中友好会館に改組
  6. ^ 1972年の第33回衆議院議員総選挙では38名の当選者を出し、23年ぶりに同党の最高記録を更新した。
  7. ^ 立木は中華人民共和国成立後に同国内の東北人民大学(現在の吉林大学)を卒業していて、両国の共産党関係が友好だった1959年に日本へ帰国した。1974年から2000年までの議員在職中には日本共産党の国際部長や副委員長を歴任した。
  8. ^ 立木の原文では、同党がこの集団を指す『にせ左翼暴力集団』の用語を使っている。
  9. ^ 不破が共産党のナンバーツーである書記局長に抜擢されたのは1970年、40歳の時だった。また、宮本の引退に先立つ1992年には100歳になっていた野坂参三がソ連滞在時代のスパイや党員同志の粛清に関わった行為を理由に党を除名され、翌年に死去していた。

出典

  1. ^ 日本共産党五十年史p54
  2. ^ a b 日本共産党五十年史p63
  3. ^ a b 日本共産党五十年史p64
  4. ^ 日本共産党の歴史と綱領を語る/不破哲三委員長(本文)”. www.jcp.or.jp. 2020年5月8日閲覧。
  5. ^ a b 日本共産党五十年史p71
  6. ^ 日本共産党五十年史p66
  7. ^ 高橋伸夫p33
  8. ^ 日本共産党五十年史p72
  9. ^ 日本共産党五十年史p76
  10. ^ 日本共産党五十年史p81
  11. ^ 日本共産党五十年史pp76/91
  12. ^ a b c d e f 不破哲三と中国共産党との関係経緯[出典無効]
  13. ^ a b 日本共産党五十年史p86
  14. ^ a b 日本共産党五十年史p87
  15. ^ 日本共産党五十年史p88
  16. ^ a b c 宮本顕治「毛沢東との最後の会談」週刊朝日(昭和52年6月24日号)
  17. ^ a b 日本共産党五十年史p93
  18. ^ 日本共産党創立95周年記念講演会/日本共産党の95年の歴史を語る/不破社研所長の講演”. www.jcp.or.jp. 2020年5月8日閲覧。
  19. ^ 寺尾五郎『日中不戦の思想』、亜東社、1967年
  20. ^ 光岡玄「善隣学生会館流血事件の意味するもの」、中国研究月報、1967年3月号、中国研究所
  21. ^ a b [社]日中友好協会『日中友好運動五十年』、東方書店、2000年6月
  22. ^ a b 日本共産党五十年史p95
  23. ^ 日本共産党五十年史p10
  24. ^ 第85回国会参議院本会議第6号 昭和53年10月18日”. 参議院. p. 24. 2021年4月3日閲覧。
  25. ^ しんぶん赤旗1979年2月19日号
  26. ^ 高野記者殉職40年 ベトナム・ランソンで追悼式(しんぶん赤旗2019年3月8日)
  27. ^ ベトナム人の記憶に残る日本人記者(ベトナム最新情報2019年5月23日)
  28. ^ しんぶん赤旗1979年3月9日号
  29. ^ 天安門事件30年 日本共産党 言語道断の暴挙と糾弾「社会主義の道とは無縁」 (しんぶん赤旗2019年6月2日)
  30. ^ 北京の五日間(10)中央委員会議長 不破哲三 27日 日本での党建設を聞きたい(上) (しんぶん赤旗2002年9月26日)
  31. ^ 学術講演 2006年5月25日、中国社会科学院で マルクス主義と二十一世紀の世界 日本共産党付属社会科学研究所所長 不破 哲三 (しんぶん赤旗2006年5月30日)
  32. ^ 綱領改定についての報告 中央委員会議長不破哲三 (しんぶん赤旗2004年1月15日)
  33. ^ 改定綱領学習講座(1)改定綱領が開いた「新たな視野」〈1〉志位委員長の講義 (しんぶん赤旗2020年3月22日)
  34. ^ a b c d 日本共産党第8回中央委員会総会 綱領一部改定案についての提案報告 しんぶん赤旗2019年11月6日付
  35. ^ a b c d e 改定綱領学習講座(1)改定綱領が開いた「新たな視野」〈1〉志位委員長の講義(しんぶん赤旗2020年3月22日)
  36. ^ 第8回中央委員会総会 綱領一部改定案についての提案報告 (しんぶん赤旗2019年11月4日)
  37. ^ a b アジア政党国際会議総会「クアラルンプール宣言」と日本共産党のとった立場(しんぶん赤旗2016年9月5日)
  38. ^ 日曜版9月11日号 アジア政党会議 総会宣言「核兵器禁止条約」を削除 日本共産党が抗議「部分的保留」表明 志位委員長に聞く(しんぶん赤旗2016年9月8日)
  39. ^ 志位和夫 「綱領一部改定案についての中央委員会報告」
  40. ^ 朝日新聞 共産党、16年ぶり綱領改定 中国念頭に覇権主義批判
  41. ^ 産経新聞 共産党、対中批判強化の1年 「同一視」嫌うも払拭できぬ共通点
  42. ^ 香港人権抑圧/弾圧即時中止、国安法撤回を/日本共産党繰り返し要求”. www.jcp.or.jp. 2020年9月18日閲覧。
  43. ^ 「香港国家安全維持法」制定に厳しく抗議し、撤回を求める/日本共産党幹部会委員長 志位和夫”. www.jcp.or.jp. 2020年9月18日閲覧。
  44. ^ 公明祝意共産対応せず中国共産党創建100年 産経新聞2021年7月1日付
  45. ^ 二階氏ら与野党幹部、中国共産党に祝意志位氏は批判 朝日新聞2021年7月1日付
  46. ^ 産経新聞 共産・志位氏が外交ボイコット要求 声明で中国批判(2021年12月13日掲載)2021年12月14日閲覧
  47. ^ 日中両国関係の前向きの打開のために――日本共産党の提言(2023年3月30日掲載)2023年4月29日閲覧






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