広島陸軍幼年学校 概要

広島陸軍幼年学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/10 13:27 UTC 版)

概要

1896年明治29年)5月に陸軍幼年学校条例(明治26年勅令第234号)が廃止され、代わって陸軍中央幼年学校条例(明治29年勅令第212号)および 陸軍地方幼年学校条例(明治29年勅令第213号)が制定された。これに基づき、東京に陸軍中央幼年学校が置かれ、その下級学校として広島に広島陸軍地方幼年学校が設置された。そのほか、東京、仙台名古屋大阪熊本にも陸軍地方幼年学校が設立された。

主な生徒数は約50名で、13歳から16歳で入校し3年間の教育が行われた。学費は陸海軍の士官子息は半額であり、戦死者遺児は免除とされていた。また、制服の襟に金星のマークがつけられたことから「星の生徒」と呼ばれた。

卒業生は中央幼年学校に進み2年間の教育を受けた。中央幼年学校卒業後は士官候補生となり、各部隊で下士兵卒の勤務(隊附勤務)を六箇月間ほど務め、陸軍士官学校に進んだ。

1920年大正9年)8月、陸軍幼年学校令(大正9年勅令第237号)が制定され、広島陸軍幼年学校と改称した。しかし、1922年(大正11年)のワシントン海軍軍縮条約に代表される世界的軍縮傾向のなか、1925年(大正14年)5月1日に廃止となった。

1936年昭和11年)4月1日、中国での戦局が拡大しつつあるなか広島幼年学校が復活。次いで他の幼年学校も順次復活した。採用生徒数の定員は50名であったが戦時中は増員された。入校年齢は13歳から15歳までで、3年間の教育を受け、卒業後は陸軍予科士官学校に無試験で入学した。

大魔神』や『妖怪百物語』などを書いた大映脚本家・吉田哲郎は、1945年(昭和20年)8月6日の広島への原爆投下時には二年に在学中で、「原爆が落ちる前に学校の先輩・阿南惟幾陸軍大将が『一年生を殺すわけにはいかん』と言って、結局、一年から三年生まで在校生は全員、広島の山奥に疎開して原爆に遭っていないんです。死んだのは先生と広島で入院していた生徒、原爆投下後に広島市に入った生徒だけなんです」と述べている[1]。同じく一年に在学中だった俳優の藤岡琢也も、7月26日に突然、疎開を命じられたことを証言している[2]

太平洋戦争の敗戦に伴い廃止され、解散した。


  1. ^ 桂千穂「吉田哲郎」『にっぽん脚本家クロニクル』青人社、1996年、697頁。ISBN 4-88296-801-0 
  2. ^ Corporation), NHK(Japan Broadcasting. “「疎開したから原爆を逃れられた」 藤岡 琢也さん(俳優)|NHK 戦争証言アーカイブス”. NHK戦争証言アーカイブス. 2021年8月3日閲覧。
  3. ^ a b 『官報』第3696号、大正13年12月16日。


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