川嶋庄一郎
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生涯
1870年(明治3年)4月14日、和歌山県有田郡山保田組板尾村(現・有田川町)の農業・松浦平吉(? - 1876年)の三男として生れた。幼名は力松。母は かつ(1838年10月13日 - 1930年3月11日)、長兄は庄太郎(1861年12月25日 - 1954年8月27日)、次兄は虎松(1865年12月9日 - ?)である。
1876年(明治9年)3月16日に父の平吉が亡くなり、一家は貧しい生活を強いられ苦労するが、力松は二人の兄とともに母をよく助けた。また、寺子屋で一度習ったことは二度と忘れなかったことから「袋耳」の異名があり、その親孝行ぶりと頭脳の優秀さは、1914年(大正3年)発行の『安諦村誌』の中で「(川嶋庄一郎)氏は、天資英明、遠く衆童に勝れしは人口に膾炙する所にして母に事ふること至って厚く、常に近隣の人を驚嘆せしめし程なり。母を遇することの厚きは豈唯同氏のみに止まらず、當家の家風なるものの如し、兄庄太郎も弟虎松も決して譲らざる所なるべし。直き材は整然たる森林に於てのみ得らるる如く、同氏の今日ある亦所以なかるべからず」と、紹介されている。
地元の開明小学校(現・有田川町立安諦小学校)を卒業後和歌山県師範学校に進み、1889年(明治22年)学力操行共に優等を以て卒業する。その後東京高等師範学校に入学するが、その優秀さが、跡取りを探していた和歌山市本町8丁の資産家で地主の川嶋庄右衛門の目に留まった。松浦力松は、東京高等師範学校卒業直前の1894年(明治27年)3月、川嶋家の婿養子となるに当たって、当主の庄右衛門の一字をとって庄一郎と改名し、同月25日に庄右衛門の長女・志まと結婚した。
京都、富山、滋賀の師範学校の教諭を務めた後、1899年(明治32年)に東京高等師範学校の研究科に入学。卒業の1901年(明治34年)12月に学習院の教授に任ぜられ、その後佐賀県師範学校、奈良県師範学校の校長を歴任し、1920年(大正9年)7月から1924年(大正13年)3月まで和歌山市視学を務めた。和歌山市視学を退いた後は、和歌山県教育会副会長、和歌山県選挙粛清委員、少年教護委員、国防協会理事、和歌山県師範学校教授嘱託等の公職に携わる。
1945年(昭和20年)7月19日のアメリカ軍による大空襲により、本町8丁の川嶋邸は焼失。一時期東京に住む長男・孝彦のもとに身を寄せるが、すぐに和歌山に戻り隠居生活に入り、1947年(昭和22年)2月12日当時の海草郡紀伊村弘西(現在の和歌山市弘西、または同市府中あたり)で没した。76歳没(享年78)。板尾徳善寺の過去帳によれば、法名は教善院積空聖道居士。
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