島田牙城 島田牙城の概要

島田牙城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 08:42 UTC 版)

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俳歴

1957年2月9日、京都市岡崎に産まれ、すぐ京都市郊外の乙訓郡向日町大字鶏冠井小字大極殿(現、向日市鶏冠井町大極殿)に移住。本名は尋郎(ひろお)。向陽幼稚園(西山浄土宗総本山光明寺が母体の私立)、向陽小学校(町立)を経て、高槻中学校・高等学校(私立)、二浪ののち、1977年、関西大学文学部哲学科へ進学。1981年、関西大学中退[4]

1973年、高校2年の冬より俳句を書き始め[5]波多野爽波に師事、爽波主宰の月刊俳句誌「青」に投句。また、1974年、同級生らと「童(がき)俳句集団」を結成[6]。1977年、「がきの会」と改称し、俳句同人誌「東雲」を創刊。がきの会には、田中裕明、上田青蛙、小豆澤裕子らの他、一時的には、中田剛、武藤尚樹、中里夏彦らが在籍、また、波多野爽波を名誉会長、茨木和生を名誉会員として迎え、毎号俳句の寄稿を得ている。(1980年1月の9号まで続く)。

1979年秋、「青」三百号を期に、田中裕明、上田青蛙とともに、はりまだいすけ、山本洋子、原田暹より、編集を引き継ぎ、編集長に就任。1980年、角川俳句賞最終候補。同年暮、爽波との意見対立により編集長を辞任し、「青」退会[7]

1981年、就職のため東京へ転居、宇佐美魚目の助言により石寒太に会い、同人誌「無門」に参加。今井聖筑紫磐井正木ゆう子らを知る。また、その後夭折した安土多架志(高槻高校の先輩)を知る。「無門」はその後寒太主宰誌「炎環」となり、一時、編集長となるが、作句意欲の衰えにより、自然退会。1996年、今井聖の誘いを受け、聖主宰誌「街」の創刊同人として参加(後述の同人誌「里」創刊まで在籍)、山下知津子らを知る。同年より、爽波門下が集う「洛」(椹木啓子発行・島田刀根夫=牙城の父=編集)に投句(1999年12月終刊まで在籍)。1998年、夏石番矢の誘いを受け、番矢代表の超俳句同人誌「吟遊」に、創刊準備号(No.0)よりNo.9まで在籍。

1999年3月、長野県佐久市新子田へ転居。2000年3月に個人紙「肘」を創刊し、信州での俳句生活を本格化させる。2001年4月、新子田公民館にて里俳句会第一回句会を持つ(「肘」は2002年5月、22号で終刊)。2002年6月、「里俳句会通信」創刊。2003年4月、月刊俳句同人誌「里」創刊。

また、2002年より2011年まで、俳句朗読の会「朗読火山俳」[8]を主導(全10回)

2015年3月、兵庫県尼崎市へ転居。2019年4月、「里」同年1月号(通巻第190号)を出し、以後、雑誌は休刊状態となる。「里」は2021年9月復刊。

なお、存命中ではあるが、京都市洛西区の勝持寺(花の寺)門外の花の寺霊園に墓石を建立している。

編集歴

1981年、牧羊社入社後、リクルート出版東京四季出版福武書店本阿弥書店を転々とする。その間、月刊俳句総合誌「俳句とエッセイ」編集担当(牧羊社)、単行本『大学の原点』(前川和彦著)編集(リクルート出版)、単行本『ザッツ、スーパー・エキセントリック・シアター』編集責任(東京四季出版)、『定本正宗白鳥全集』資料収集・筆記担当(福武書店)、「歌壇」編集長(本阿弥書店)などを歴任。編集者としての基礎を固める。1989年、邑書林に共同参画の形で入社、取締役編集長を経て、2014年より代表取締役編集長(2015年より取締役一人体制となったのに伴い、取締役編集長)。

『加藤楸邨初期評論集成』(全五巻)、『波多野爽波全集』(全三巻)、『松瀬靑々全句集(全二巻別巻一)などのほか、「邑書林句集文庫」「セレクション俳人」などの廉価版句集の普及にも傾注する。2009年、2010年に立て続けに刊行した『新撰21』『超新撰21』(共に筑紫磐井・対馬康子高山れおな編)は、21世紀の俳句の動向を占い探るものとして話題を集めた[9]。また、関悦史句集『六十億本の回転する曲つた棒』、御中虫句集『関揺れる』[10]北大路翼句集『天使の涎』、堀田季何詩歌集『人類の午後[11]など、時宜を得た若手の発掘にも定評がある。また、茨木和生『季語を生きる』、高山れおな『切字と切れ』など評論集、エッセイ集が邑書林から多く刊行されている姿も、牙城の編集態度を示すものと言えよう。


  1. ^ 「里」2011年11月号に島田牙城報告「新資料発見 1922年其十夭逝 全207句」が掲載され、翌12月号「特集 中西其十を読む」には、室生幸太郎、宇多喜代子、伊丹啓子、川名大、四ッ谷龍が執筆している。
  2. ^ 2020年、谷口智行編(黄土眠兎・森奈良好編集協力)『平松小いとゞ全集』として結実。「俳句αあるふぁ」(毎日新聞出版)は2021年春号で「文芸研究の醍醐味や出版文化の意義に触れることのできる一冊」と、編集部記事として評価を与えた。
  3. ^ 島田牙城著『俳句の背骨』収録の「新季語提言 ゆきあひ考」(初出、「里俳句会通信」2002年9月号)および「『靑々歳時記』を読む 一、新季語「桃柳」立項のこと」(初出、「里」2014年3月号)。
  4. ^ 島田牙城句集『袖珍抄』p.128
  5. ^ 小句集『火を高く』掲載、今井聖「跋・不思議に出帆」参照
  6. ^ 「東雲」創刊号、木村登「私とがきの会 - その結成より - 」1977年9月
  7. ^ 「しばかぶれ」第二集(2018年7月) p.30田中惣一郎による「ロングインタビュー」
  8. ^ 「里」2009年10月号p.10によると、第一回は2002年3月。同じく「里」2011年4月号p.2の牙城「まえがき」に「第十回で幕を閉じた」とある。
  9. ^ 例えば、生野毅は「図書新聞」(2010.4.17)で「俳句界に久々に新風を送った選集として各方面で話題になり」と記す。
  10. ^ 松岡正剛は「千夜千冊」の1461夜 - 1462夜で連続して『関揺れる』を『六十億本の回転する曲つた棒』とともに取り上げている。  なお、この本は2012年2月24日深夜に御中虫がツイッターに投稿した125句をたまたま目にした島田が3月31日には第一刷を出すという緊急出版であった。
  11. ^ 「朝日新聞」(俳句時評)受難者の横顔 角谷昌子
  12. ^ 「跋」を書いた今井聖が文中「第一句集」と表現していることから、刊行当初は第一句集という位置付けだったようだが、『袖珍抄』「あとがき』及び「略歴」では、著者自身これを「小句集」と位置付けている。
  13. ^ 島田牙城著『俳句の背骨』p.219「あとがき」


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