宗家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/20 21:21 UTC 版)
日本ではこれから転じて、能楽などの伝統芸能や古武道などで家元の言いかえとして用いられる称号として用いられる。もとは能楽のシテ方観世流で観世銕之丞家に対して家元家を宗家と呼んだところからおこったものである。宗家位、宗家号とも。流派の経営、普及活動及び一門の統率、門下生の教育を旨とする。流派により宗家自ら師範となる場合、弟子に門下生の指導を委ねる場合がある。
概要
宗家とは、ある一族、一門の本家、もしくは本家の当主のことである。
古代日本においては末子相続があったとする説もあるが、通史的には家父長制あるいは長子相続が基本とされ、宗家の継承は、基本的に長兄に対して行われる(これを嫡流という)。他の子族は庶流(庶家、傍系、分家などとも)となったが、長兄が廃嫡されたり他家へ養子に出されたり、あるいは仏門へ出家したりなどで、長幼の序にしたがった弟が宗家を継承する場合もあった。
また朝鮮においては、門中は,墓祭を行うための資金を確保し,また高名な祖先の遺した文物があればそれを保存するために,共有の財産(位土と呼ばれる田畑,墓地を置く山林,集会を開くための祭閣など)をもち,有司や門長などの役員をおいて事務を処理する。門中の始祖から代々その後継ぎとなってきた家(長男の系統)を宗家(チョンガchongga),その当主を宗孫(チョンソンchongson)と呼ぶが,これは門中の象徴的中心である。[1]
「宗」の字義
「宗」の漢字は、もともとは祖先霊に対する祖先信仰を表す。転じて、“ものの始まり”を意味する「もと」や、中心を表す「むね」の訓みを合わせた。つまり、もともと「宗家」は氏族の中心をなす唯一に定まる血筋の家系を指す。
宗家と嫡流
日本では古代の早い時期から「地位」という区別によって一氏族を上位の権力が支配する構造が生まれ、単に血統による継承ではなく、後述する「氏長者」による統制によって秩序を維持した一面があった。一族は氏長者がもつ財産の継承により安定な生活が保証される(惣領はこれにちなむ)が、なんらかの理由で長者が亡失、あるいは失墜することは、生活に困難をきたし一族存亡の危機となるだけでなく、支配階級にとっても支配制度の根幹を揺るがしかねない。そこで宗家の断絶を忌避するために「嫡流継承」と「氏的継承」との2つの解釈が生じた。
養子や猶子はこのような背景による要請で生じた制度である。孫や甥、非嫡出子が養子となったり、まったく血縁のない者が養子に入り宗家を名乗ることもあった。また男子を複数の妻を娶ることが一般的であった時代、父権制でありながら母系が上位権力の血筋の場合は、年の序列に関係なく側室の子よりも正室の子が優先されることもあった。嫡流でありながら何らかの事情で一族を統率するいわゆる嫡宗権を失った血筋を嫡家といい、代わって庶流が一族の統率権を得れば宗家を名乗った。時代が下がるごとに宗家の定義は複雑さを増していくが、複数の家の間でどちらが宗家であるかをめぐり争いとなった歴史上の例は神話の時代から枚挙にいとまがない。
江戸時代における御三家や御三卿は、徳川宗家(徳川将軍家)の後嗣が絶えても権威の安定を図るための家柄制度(ただし明文化された「制度」ではない)であったともされる。
氏長者
これは藤氏長者や源氏長者というように、氏(うじ)の代表者の呼称である。例えば、源氏長者は源氏一族の代表者であるが、この源氏の下位の家族集団として足利氏や徳川氏(ただし徳川氏の源氏は自称という説が有力)があり、それぞれに宗家がいた。それゆえ、氏長者は宗家よりもより大きな一族集団の代表者の意味である。足利将軍家や徳川将軍家は、それぞれ足利宗家、徳川宗家であると同時に源氏長者でもあった。
北条氏の「得宗家」
鎌倉幕府における北条氏の惣領の家系を、北条時政の子である北条義時から9代高時への嫡流に限り「得宗家」と呼んでいた。ただ、史料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。あるいはこの得宗は徳崇、徳宗とも書かれ、謂れは2代義時の別称、後世での戒名、追号など諸説もある。
能楽
能楽では家元のことを宗家と呼ぶが、もとはシテ方観世流で分家の観世銕之丞家に対して家元家を宗家と呼んだところからおこったものである。ただ宗家の名称は江戸幕府の将軍より与えられたものであるとする説もある[2]。今日では観世流以外の家元家でも宗家の呼称が使われている。原則として宗家は世襲であり、実子がいない場合は親族から養子を迎えて今日まで続いている。
能楽のうち、特にシテ方(主人公)流派の宗家の権限は強大で、伝統的に演目、演出、上演、人事(認定・破門)、免状、謡本刊行等の権限を有する。能楽師の育成は宝生流では宗家のもとで行われるが、観世流では一定の家格を持つ家(職分家以上)に能楽師の養成を認めている。
能楽はもともと武家の式楽だったので、江戸時代には幕府や各地の大名家の庇護を受け、各流派はそれぞれ扶持をもらっていた。観世流は江戸幕府の庇護を受けていたので、明治維新後、徳川宗家が駿府に隠棲すると、観世宗家の22世・観世清孝はこれに義理立てして静岡へ移住し、東京は分家の観世銕之丞家の5代目・観世紅雪と初世・梅若実(52世・六郎)が預かる形になった。その間、観世銕之丞家と梅若家は独自に免状を発行するなどの家元同然の活動を行い、観世宗家が東京に戻ってくると、免状発行権の返還を巡って両者は対立するようになる(いわゆる観梅問題)。大正10年(1921年)、観世宗家24世・観世元滋は梅若一門(梅若六郎家、梅若吉之丞家、観世鐵之丞家)を観世流から除名し、梅若一門は新たに梅若流を興したが、その後梅若流も分裂して、最終的には昭和29年(1954年)、能楽協会の斡旋により梅若流は観世流に復帰した。
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