天保の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/25 18:27 UTC 版)
綱紀粛正
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2023年5月) |
倹約令を施行し、風俗取締りを行い、芝居小屋の江戸郊外(浅草)への移転、寄席の閉鎖など、庶民の娯楽に制限を加えた。歌舞伎役者の7代目市川團十郎、人情本作家の為永春水や柳亭種彦などが処罰された。
寄席に対する規制は同年2月に実施され、町方や寺社境内、新吉原などに200ヶ所を超える寄席が存在していたが、一部の古くから存在する寄席を除いて大半が規制を受け、廃業した[注釈 4]。また、閉鎖を免れた寄席も、演目を神道講釈や心学など娯楽以外のものに限るなど規制を受け、寄席は衰微したが、忠邦失脚後には息を吹き返した。
特に歌舞伎に対し、市川團十郎の江戸追放、役者の生活の統制[注釈 5]、興行地の限定(江戸・大坂・京都のみ)といった苛烈な弾圧が加えられた。それまで江戸の繁華街にあった江戸三座(中村座・市村座・守田座)を、天保12年(1841年)の中村座の焼失を機に建替えを禁止し、郊外であった浅草の一角の猿若町に移転が実施された。歌舞伎の廃絶まで考慮されたが、そこまでに至らなかったのは、北町奉行であった遠山景元の進言によるものと言われている。[誰によって?]歌舞伎劇場が市内に戻ってくるのは、明治5年(1872年)まで待たねばならなかった。合わせて陰間茶屋も禁止された。
注釈
- ^ (1794 - 1851年)。譜代大名で肥前国唐津藩主家に生まれるが、唐津藩は長崎の管轄を担当するため幕政参与を見込めず、自ら国替えを望み、側用人水野忠成の計らいもあって文化14年(1817年)には遠江国浜松藩に転封され、寺社奉行となる。その後は大坂城代・西丸老中と出世し、老中首座となる。
- ^ なお、大奥については姉小路ら数人の大奥女中に抵抗されたことで、改革の対象外とされた。
- ^ (1804年 - 1874年)。儒学者林述斎の子として生まれ、天保8年に目付となり、目付時代には蛮社の獄における詮議を行っている。水野に抜擢されて改革に携わるが、上知令においては反対派にまわり、水野失脚後にも政権に残ったが、水野が老中首座に返り咲くと罷免されている。
- ^ なお、新吉原の6ヶ所については全て免除されている。
- ^ 平人との交際の禁止、居住地の限定、湯治・参詣などの名目での旅行の禁止、外出時の編笠着用の強制。
- ^ なお、この際に株仲間の解散を諌めた矢部定謙が無実の罪を着せられ、非業の死を遂げている。
- ^ もっとも、諸藩の場合は行政区域が狭くて課題が少なく、その分経済・財政問題に集中できたという側面もある。[要出典]
出典
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ). “三大改革(さんだいかいかく)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2023年5月17日閲覧。
- ^ 福和伸夫 (2020年8月24日). “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫) - 個人 - Yahoo!ニュース”. Yahoo!ニュース. 2020年12月2日閲覧。
- ^ 富士川 1966, p. 130
- ^ 飯田 & 春日, pp. 255–256
天保の改革と同じ種類の言葉
- 天保の改革のページへのリンク