佐藤敦之 佐藤敦之の概要

佐藤敦之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/28 10:23 UTC 版)

佐藤敦之
2009年世界陸上競技選手権大会
選手情報
フルネーム 佐藤敦之
ラテン文字 Atsushi Sato
国籍 日本
種目 長距離走マラソン
所属 中国電力陸上競技部(現役時代)
京セラ女子陸上競技部 (指導者)
中国電力陸上競技部(指導者=2022年~)
大学 早稲田大学
生年月日 (1978-05-08) 1978年5月8日(45歳)
生誕地 福島県河沼郡会津坂下町
身長 170cm
体重 55kg
引退 2013年
自己ベスト
3000m 8分00秒83 (2004年)
5000m 13分33秒62 (2004年)
10000m 27分56秒86 (2004年)
ハーフマラソン 1時間00分25秒 (2007年)
マラソン 2時間07分13秒 (2007年)
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ハーフマラソン元日本男子記録保持者(1時間0分25秒)。ほか主な実績に各男子マラソン種目で、2008年北京オリンピック日本代表(76位)、2009年世界陸上ベルリン大会6位入賞、2003年世界陸上パリ大会10位など。

経歴

小学校までは郡山市原町市(現在の南相馬市)で過ごす。 会津若松市立第四中学校福島県立会津高等学校早稲田大学卒業。榊枝広光(順大-日産自動車)は中学校時代の同級生である。また小川博之(国士舘大-日清食品-JALグランドサービス-八千代工業、元サンベルクス陸上部監督)は中学時代からのライバルであった。

中学から陸上競技部に所属し、中学2年生のとき1500mで全国優勝を果たす。ほかにジュニアオリンピックで中2(2000m)、中3(3000m)と2連覇を果たしている。[1]。高校は長距離の強豪・田村高への進学を希望していたが両親の勧めにより会津高へ進学[2]。希望した進学先でなかったことなどもあり、一時期は不登校に陥った[3] が2年時にインターハイ、国体5000m5位、3年時にインターハイ5000m5位などの実績を残す。

早稲田大学では1年から三大駅伝に出場するなど活躍、3年時にはびわ湖毎日マラソンで当時の学生最高記録を樹立した。4年時には長距離ブロック長に就任し、関東インカレ日本インカレでも活躍したがその後オーバートレーニングに陥り駅伝シーズンを欠場。チームは箱根駅伝で10位に終わりシード権を失った。

早大卒業後は中国電力に入社し、陸上競技部に所属する。2002年には世界ハーフマラソン(ベルギー)で1時間01分37秒で8位。2003年には世界陸上パリ大会に出場する。

2004年元日の第48回全日本実業団対抗駅伝競走大会では5区で、先頭を走る4連覇を狙うコニカミノルタの松宮祐行を逆転し、首位に立ち区間賞を獲得、中国電力の初優勝に貢献、3年後の第51回全日本実業団対抗駅伝競走大会でも5区で先頭を走る日清食品の大島健太との2分17秒差を逆転し区間賞を獲得、中国電力2度目の優勝に貢献した。

2007年7月、女子800m日本記録保持者の杉森美保(当時の所属はナチュリル)と結婚。

2007年10月14日世界ロードランニング(現在の世界ハーフマラソン)選手権大会イタリアウーディネ)に出場。8位入賞には僅か1秒及ばず総合9位に留まるも、当時の日本記録(男子)である1時間0分25秒を樹立した。

2008年8月、北京オリンピックの男子マラソン日本代表に選出されるが、その後走り込みの時期に腸炎を患い一時練習出来なくなる等、レース前の調整に失敗。同五輪マラソンへ強行出場するも、先頭集団のハイペースな展開に全く付いて行けず、レース序盤で早々脱落。一時は途中棄権も危惧されるほどペースダウンしたが、最終的には完走した選手では最下位(76位)でゴールした[4][5]

2009年8月、世界陸上ベルリン大会の男子マラソンでは、レース中盤は14位前後だったが終盤に追い上げ、日本男子で最高順位となる6位入賞と健闘した(マラソン団体戦で日本代表は銅メダル獲得)。

2010年元日、第54回全日本実業団対抗駅伝競走大会では4区(22.3 km)を1時間03分11秒で走り今井正人堺晃一以下を抑え区間賞を獲得した。

2012年3月のびわ湖毎日マラソンに出走予定だったが、同年2月に痛めた左太もも裏の筋膜炎が回復せず欠場。これにより同年8月開催のロンドンオリンピック男子マラソン代表選出が消滅、北京五輪に続く二大会連続のオリンピック代表はならなかった。同年5月1日付で中国電力を休職し出生地の会津坂下町に活動拠点を移す。

2013年12月1日、福岡国際マラソンが現役最後のレースとなる。怪我が重なり練習が詰めず佐藤曰く「目標は完走」で出場、6年前の同マラソンから25分以上遅れ、2時間33分台ながらも無事ゴールを果たした[6]

現役引退後の2014年2月2日、京セラ女子陸上競技部監督の就任が報道された[7]。2014年4月1日で正式に監督に就任。なお、妻の美保も同時にコーチに就任した。2020年8月31日付けで監督を辞任した。同時に妻の美保もコーチを辞任した[8]

人物

走りのためになると思ったことは全て実行し、エレベーターエスカレーターはもとより、自転車にも乗らないなど徹底している[9]。かつて「走る修行」と呼ばれていた瀬古利彦は『本当の修行僧は佐藤敦之だ。』と評した[10]

そんな自他共に認めるストイックさが逆に災いし、自らを追い込みすぎるあまり、過緊張によって力みが生じ失速するレースが一時続いた。しかし結婚を期にゆとりが生まれ、2007年後半の好成績に繋がったという[11]

人や物への感謝の気持ちを大切にしており、レースでゴールした直後、そのトラック(コース)や観客に対して四方に深々と一礼する、礼儀正しい選手。北京五輪男子マラソンでは最下位だったものの、ゴール後いつもと同じように観客に向かってお辞儀をすると、北京の観客からは佐藤に対して大きな拍手が送られた[11]。また早稲田大学時代には、割り箸再使用をチームメイトに勧めていたこともある[9]

また一時期「微笑み走法」を用いていたことでも知られるが、坂口泰監督に怒られたこともあり、その後封印している[11]。だが、2009年の世界陸上ベルリン大会男子マラソンで6位入賞を果たした佐藤は、レース終盤に入ると徐々に笑顔を浮かべて走り続け、最後はガッツポーズパフォーマンスも見せながらゴールした[11]

無類の日本酒好きである[要出典]


  1. ^ 北京へのチャレンジ AMラジオ1242 ニッポン放送
  2. ^ PIONEER OF WASEDA SPORTS 第2回 中国電力陸上競技部佐藤敦之インタビュー wasedasports.com
  3. ^ PIONEER OF WASEDA SPORTS 第2回 中国電力陸上競技部佐藤敦之インタビュー(2) wasedasports.com
  4. ^ 他の日本代表選手は、尾方剛が13位、大崎悟史は欠場。
  5. ^ 日本最終種目で惨敗 尾方13位、佐藤は最下位 北京五輪マラソン - 2008年8月25日付 スポニチアネックス
  6. ^ 佐藤敦之“思い出の地”で最後のレース「感謝多き競技人生だった」 - 2013年12月1日付 スポニチアネックス
  7. ^ 朝日新聞 2014年2月2日東京朝刊14版 27面
  8. ^ 京セラの佐藤監督辞任 陸上女子 - 時事ドットコムニュース(2020年9月7日)2021年7月29日閲覧。
  9. ^ a b 陸上競技マガジン(ベースボール・マガジン社)2000年4月号 佐藤敦之記事
  10. ^ 早稲田大学校友会福島県支部オフィシャルサイト「五輪男子マラソン佐藤敦之選手が走る」
  11. ^ a b c d 週刊新潮 2008年9月4日号 p.29~30


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