井上雅二
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経歴
兵庫県氷上郡神楽村(現在の丹波市)に足立多兵衛の二男として生まれ[2]、井上藤兵衛の養子となった[4]。海軍兵学校に入るが、大陸に志を抱いて退学した。その後、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学。在学中からアジア主義団体の東亜会に関係し、1898年(明治31年)に東亜会と同文会が合同し、東亜同文会が成立すると、幹事に就任した。1899年(明治32年)に東京専門学校英語政治科を卒業[1]。1900年、清国(中国)で義和団の乱が勃発すると、立憲派(勤王派 / 康有為派)の唐才常による「自立軍」蜂起計画を援助し、東亜同文会による「連邦保全」策に関与した[5]。またウィーン大学やベルリン大学に留学し[2]、経済学と植民政策学を学んだ。
日露戦争開始とともに東亜同文会特派員・逓信省嘱託として韓国に渡り、1905年(明治38年)に目賀田種太郎財政顧問のもと財務官に就任した[1]。1907年(明治40年)宮内府書記官に転じ[1]、1909年(明治42年)に退官した[1]。
その後1910年代には著作によって経済的な南進論を唱道し、実業としても東南アジア開拓を志して1911年(明治44年)南亜公司を創設し[1]、1915年(大正4年)に南洋協会が設立されると理事とななり[1]、1920年には同協会専務理事となる[1]。1924年(大正13年)に海外興業株式会社取締役社長[1]、1926年(大正15年)には秘露綿花株式会社社長[1]に就任するなど、南米の開拓事業にも進出した。政治家としては、1924年の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した[1]。上記のほか、メキシコ産業社長[2]、東洋拓殖常務顧問[2]、人口問題研究会常務理事[2]、アフガニスタン協会会長[2]、日伯中央協会常務理事などを歴任した。第二次世界大戦末期の鈴木貫太郎内閣成立に際しては、顧問を務めた[2]。
1947年6月23日に死去[1]。
国立国会図書館憲政資料室には彼の書翰を中心とする「井上雅二関係文書」が所蔵されている[1]。
南亜公司
南亜公司は、三五公司源成農場で成功した愛久澤直哉の助言でマラヤに設立された森村組系の農園会社で、のちに井上が代表となった[6]。法華津孝治、森村開作、和田豊治、川崎栄助[7]らが役員を務めた。森村は1916年より1929年まで社長を務めた。ゴム栽培を主とし、1937年に昭和護謨株式会社(現・昭和ホールディングス)に吸収合併された[8]。
家族
- ^ a b c d e f g h i j k l m n “井上雅二関係文書(MF:東京大学近代日本法政史料センター蔵)”. 憲政資料(憲政資料室)|リサーチ・ナビ|国立国会図書館. 国立国会図書館. 2023年2月19日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “井上雅二|近代日本人の肖像”. 近代日本人の肖像. 国立国会図書館. 2023年2月19日閲覧。
- ^ 衆議院『第四十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1924年、6頁。
- ^ 『人事興信録』
- ^ (翟新「"第四章「義和団事変期の「連邦保全」工作」"」『東亜同文会と中国 : 近代日本における対外理念とその実践』慶應義塾大学出版会、2001年、116-118頁。ISBN 476640825X。全国書誌番号:20155501 。)また参考文献中の近藤邦康論文も参照。「連邦保全」策とは、義和団事件で北京の清国朝廷が存亡の危機に陥った際、華南地域に李鴻章を中心に孫文ら革命派など改革・反清勢力も糾合して新政権を樹立し、北京朝廷と併せて連邦国家として中国の保全を図ろうとする構想であったが、あくまで清朝を維持しようとする李の北京入りにより挫折した。
- ^ 臺灣の仏領インドシナ調査と事業経営 南亜公司と日仏製糖会社を中心に湯山英子、臺灣學研究・第二十期 民國105年12月、國立臺灣圖書館
- ^ 川崎 栄助(読み)カワサキ エイスケコトバンク
- ^ 沿革昭和ホールディングス
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