ロバート・オウエン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/15 07:50 UTC 版)
家族
- デイヴィッド・デイル。ロバート・オウエンの岳父。
- カロライン・オウエン(1778-1831)。デイヴィッド・デイルの娘であり、ロバート・オウエンの妻である。1778年生まれで、オウエンとグラスゴーで出会ったのは19歳の時であった。2人は出会って1年後の1798年に結婚した。母が名門の出で長老派教会の敬虔なクリスチャンで熱心な宗教教育を受けていたこともあり、娘のカロラインも毎日聖書を読み、毎晩祈り、日曜日には必ず教会に行く信仰の篤い女性であった。天性慈しみ深く、温厚従順な夫人だったという。しかし、夫のロバートは良妻に恵まれながらも信仰一徹の思想に不満を持ち始め、自分の子どもやカロラインの妹たちといった近縁の親族を世俗的で自由な教育を与えようと考えた。したがって、夫人は宗教批評家としての夫の活動を支持していたわけではない。しかし、夫人は夫ロバートや家族を献身的に支えたばかりか、ニュー・ラナーク工場で働く労働者への関心に心を砕いて素行不良な労働者を労わり、品行を改善できるように助けたのも夫人であった。また、工場視察に来た来訪者の接待役を務めて、饗応の場で行き届いた歓迎を行ったのも夫人の功であった。オウエンは工場経営から工場立法や宗教批判、協同組合運動などの社会運動へと活動を拡大させていくとロンドンに滞在することが増え、家を留守にすることが多くなった。当然、留守中に家の管理や子どもの教育を任されたのは夫人カロラインであった。その後、ロバートがヨーロッパに旅行中もニュー・ラナークに留まり、アメリカでニュー・ハーモニー建設に着手するも夫人は同行しなかった。夫人カロラインは夫の社会運動には距離を置いたが、子どもの必要を最優先に考えて家族を守ろうとしたのである。それ故、宗教上の立場の相違を除けば、この上もない良妻賢母と評価されている。カロラインは1830年に娘アンを失って喪失感を抱えながら、夫が帰国してまもなくの1831年に世を去った[130]。
オウエンの人生に残された偉業は、彼とニュー・ハーモニーに移住した四人の息子ロバート・デイル、ウィリアム、デーヴィット・デイル、リチャード・デイルと娘のジェーンに受け継がれた。
- ロバート・デイル・オウエン(1801–1877)。1825年、父とともにアメリカへと渡ったロバート・デイルは、ニューヨークに上陸後、すぐさまアメリカ市民権を申請した。父を支えてニューハーモニー・コミュニティを運営し、1820年代後半に『ニューハーモニー新聞』の発行を助け、協同主義の有能な提唱者となった。また、1826年以降はアメリカの自由思想家フランシス・ライトとともに活動してナショーバーで黒人解放奴隷の定住化計画に協力した。ライトとニューヨークで週刊誌『自由探求者』を共同で編集、エイブラハム・リンカーンとも30年以上も交友し、婦人解放、奴隷解放、協同主義の宣伝に努めた。1832年にニューハーモニーに戻り、インディアナ州で政治家になる。1835年には民主党からインディアナ州議会代議院議員に選出され、1836–1839年にかけて、1851–1853年にかけて議員を務めた。1843-1847年にはインディアナ州からアメリカ合衆国下院議員に選出された。1844年にはオレゴン州境問題で境界案を提示したほか、1845年にはスミソニアン研究所の設置、1850年の州憲法改正に貢献した。1853年にはナポリ王国駐在代理公使、1855年にはイタリア大使、1858年に帰国した後は再び奴隷解放問題に向けて活動した。1861-1865年の南北戦争の末期に国防省に設置された自由民対策庁長官に就任、北軍作戦地域の自由民や難民の救済と保護を担当した。戦後もワシントンD.C.に留まり、公民権法として知られるアメリカ合衆国憲法修正第14条の制定のために尽力した[131]。ロバート・デイルも父と同様に熱烈な心霊主義者であった。
- ウィリアム・オウエン (1802–1842)。1824年、父とともにアメリカに渡ったウィリアムは、ニュー・ハーモニー建設運動に当初から参加して終生に渡って共同体の実験に尽くした。父がアメリカを去った後も現地に留まり、1837年メアリと結ばれて弟たちと共に結婚式を挙げた。わずか一年で妻を失い、五年後には早すぎる死を遂げた。若くして亡くなったため伝えられている事績は乏しいが、演劇に関する関心が深く、1827年にニュー・ハーモニーに演劇組合を設立した。組合は百年ほど存続したといわれている。1838年には「演劇の船」をつくりミシシッピ川を下って各地の巡回公演を行った[132]。
- ジェーン・デイル・オウエン(1805–1861)。母と姉妹の死後、ジェーンは最後にニュー・ハーモニーに入った。1835年にバージニア州出身で村の売店を共同経営していたロバート・ヘンリー・フォーンテレロリーと結婚するが、1850年に商用で南部に出かけた夫を黄熱病で亡くした。その後は子供と甥や姪の教育に専念した。長女のコンスタンスは伯父のロバート・デイルのナポリ赴任に随行してヨーロッパに渡って教育を受け、帰国後はニュー・ハーモニーに定住して、1859年にアメリカ最初の婦人の文化サークル「ミネルバ協会」を設立した。協会の規約は伯父のロバート・デイルが書いた[132]。
- デイヴィッド・デイル・オウエン(1807–1860)。1828年にアメリカに渡る以前は、画家を志してロンドンでベンジャミン・ウェストの弟子として修業していた。ニューハーモニー到着後は画才が無いと感じて画家を諦め、次いで医学に関心を持って1835年にオハイオ州のマイアミ大学医学部で学位を取得した。しかし、本格的な麻酔医療以前の時代にあって、外科医として開業して手術を施すには神経が細すぎると感じて開業医を辞めた。マクルールの地質コレクションに魅了されて地質学の研究に着手し、インディアナ州内での地質調査の実績が認められて1839年には連邦政府地質学者に任命された。ニュー・ハーモニーを本拠地として全米地質調査本部を設置、以後17年間、アメリカ北西部の地質調査の専念した。兄ロバート・デイルがスミソニアン研究所設立の構想を担当することに及んで、ワシントンD.C.で施設設計図の作成を手掛けた。1856年、デイヴィッド・デイルは研究所が完成すると地質調査本部を首都に移設した。その後、ケンタッキー、アーカンソー、インディアナ州の地質学者を歴任した後引退し、1860年にニューハーモニーで没した。玄孫にあたるケネス・デイル・オウエンもニュー・ハーモニーで暮らし地質学者となっている。1853年、デイヴィッド・デイルは医学から地学に至るまで科学的才能に長けており、義父のジョゼフ・ニーフが亡くなった後、ニーフの遺言でナポレオンのイタリア戦役 (1796-1797年)中に戦場で狙撃された時に頭部に残った弾頭を探してほしいと依頼され、遺体を解剖して顎の骨に残された弾頭を発見し取り除いている[133]。
- リチャード・デイル・オウエン(1810–1890)。彼は1827年にニューハーモニーに到着した際には弱冠18歳であった。しかし、現地に到着後まもなく化学者であった夫サミュエル・チェイスを亡くし、美術と音楽の教師をしていた美貌の未亡人バティと結婚した。しかし、間もなく精神病で新妻を失い、9年後にはニーフのもう1人の娘アンと再婚した。ニューハーモニーでは児童教育に従事していたが、兄デイヴィッド・デイルの影響で地質学への関心を深めて調査を手伝っていた。近隣のケンタッキー州の陸軍学校で自然科学を教え、テネシー州ナッシュビルで学校経営に取り組んだ。しかし、兄が1860年に亡くなるとインディアナ州の地質学者の席を受け継いで地質研究に携わった。一方、リチャード・デイルは米墨戦争では第16連隊の大尉として従軍し、南北戦争では州都インディアナポリスの南軍捕虜収容所の所長を務めた。従軍中はユリシーズ・グラント将軍とともにビックスバークで南軍に捕まるが、在任中は捕虜を厚遇したため、リチャード・デイルは博愛主義者として知られており、すぐさま釈放されている。戦後は南軍の元捕虜が募金活動で集めた資金で胸像を制作して州都に建立されている。退役後はインディアナ大学の自然科学の教授を務めたほか、パデュー大学の初代学長に選出されて大学の基礎固めに貢献したが、学長としての俸給は一切受け取らなかった。1874年には学長職を退き、インディアナ大学の教授としてニュー・ハーモニーで地質学の研究に没頭した。教授職を退いた後は村の子供にフランス語やダンスを教えながら余生を過ごした。余生は健康管理に注意を傾けたが、飲み薬と誤って防腐剤を飲み81歳で亡くなった[134]。
注釈
- ^ 四色付きの長さ50センチほどの長方形型の木片を掲示して作業報告をおこなう生産管理方式。木片は黒・青・黄・白の四色が側面部に彩色されており、掲示される正面の色が前日の各工員たちの作業工程に関する評価を示していた。黒は悪い、青は普通、黄は良、白が優を意味しており、これを操業記録簿に記載して工場長が記録を管理して人事評定を決定していた。各工員には操業評価に不満がある場合、工場長を飛び越えてオウエンに訴え出る権利があった。オウエンによると、この制度を導入した結果、初めは黒が大多数だったものの次第に黒が減少し始め、やがて白が出てくるようになったと回想している[41][42]。
- ^ オウエンは経営の刷新のためにロンドンの財界人から資金集めを行った。合資協定は一株一万ポンドで内訳は次の通り。ジョン・ウォーカー三株、ジョゼフ・フォスター一株、ウィリアム・アレン一株、ジェレミー・ベンサム一株、マイケル・ギップス一株、オウエン五株。合計十二株。ウォーカー、フォスター、アレンは富裕なクエーカー教徒で慈善家として知られた人物であった。ギップスは国教会のトーリー党員でロンドン市長にもなった市参事会員で彼も慈善家として知られていた。ベンサムは功利主義の哲学者である。彼ら有志はオウエンの教育プランに賛同して「学院」の発足に貢献した[52][53]。
- ^ 運営費の内訳。
- ^ オウエンは伝統的教育の形態を改革するためにプロの教育家を採用しなかった。新しい教育プログラムを担当する教師の資質として、1)子供が大好きなこと、2)子供の面倒が行き届くこと、3)徹底的に従順で命令には喜んで従うこと、4)理由の如何に関わらず子供を打たないこと、5)どんな言葉や仕方であるかを問わず、子供を脅かしたり罵らないこと、6)いつも愉快に親切に優しい言葉や態度で子供に接すること、7)どんなことがあっても子供を書物でいじめないこと、8)子供が好奇心を抱いて自発的に質問するようになってから、物の使い方、性質を教えること―が求められた[59]。授業はクイズ形式のゲームのような形態で実施されていたが、見学者の多くが学習効果の高さに驚いたという。見学者の中には後のロシア皇帝ニコライ1世、オーストリアのヨハネス皇子、マクシミリアン皇子といった王侯に加えて、各界の有力者や知識人たちが来訪した[60]。子供は人を傷つけず、互いの幸福を追求するということがモットーとして教え込まれ、子供の問題行動には忍耐強く諭すといった対処法が取られた。最初の教師として任用されたのは、木綿の手織り作業を担当していたジェームズ・ブキャナン、17歳の女工モリー・ヤングの2人であった。ブキャナンは読書算さえ知らなかったが、純朴で子供好きで面倒見の良い人間で、モリー・ヤングは子供の保育についての天賦の才があったと伝わっている[59]。
- ^ ロバート・デイルによると、子供たちは白地木綿の最良質の着物を着て、ローマ式のチュニックの形をしており、男児は膝まで、女児は踝までの長さがあって、いつも清潔でいられるように衣服を週3回着替えていたという。スコットランドは冷涼な気候なので、男児用にハイランド風のキルトが、女児はジンジャムを着ていたのではないかとも推測されている。予算は学院運営費の2割近くが充てられていた[61][62][63][64]。
- ^ いくつかの都市選挙区は工業化による人口移動で過疎化して2名の議員を数名の有権者から選出するポケット選挙区と化していた。そこでは接待や贈賄による買収で有権者の投票が左右される不正選挙の温床となっていった。急激に成長した工業都市は工業化以前は農村だった地域で州選挙区という扱いであった。土地を所有していない市民に選挙権はなく、土地を所有できた一握りの人々がわずか1名の議員を選出する状況下にあった。1830年代の危機的時代状況の中で貴族や地主層に対する中産階級と労働者階級の闘争は激しさを増し、ここに議会改革は不可避なものとなっていった。議会は世論を正確に代表する能力を失って国民に対する権威は失墜し、革命直前の社会状況にあった。
- ^ このときの改革では、都市選挙区に居住する10ポンド以上の家屋・店舗を占有する戸主、州選挙区に居住する10ポンド以上の長期(60年)自由土地保有者、50ポンド以上の短期(20年)自由土地保有者に選挙権が与えられ、議席再配分によって腐敗選挙区の廃止と工業都市への選挙区の割り振りが実施された。だが、労働者には選挙権は与えられず、改革は未解決のままに残され、議会改革問題はチャーティスト運動へと引き継がれる[102]。南部のロンドンからイングランド北部マンチャスターに連なる工業都市がチャーティスト運動の一大拠点となっていた[103]。
- ^ 1831年ヘンリー・ヘザリントンとウィリアム・ラヴェットは「労働者階級全国同盟」(英: National Union of the Working Classes) を結成、機関誌として『プア・マンズ・ガーディアン』を発行した。かれらはフランスの『人権宣言』とトマス・ペインの思想を前文に掲げて綱領を発表した。まず、利潤や地代による収奪を批判して、労働全収権を提唱して労働者が労働生産物の全価値を享受する権利を訴えた。これと同時に雇用主の搾取に抵抗するための団結権やストライキ権の保証を求めていた。そして、その手段を議会改革の推進に求めた他、社会経済的な変革を要求して労働者階級の窮状を打破しようとした[112]。1836年の恐慌時、ヘザリントンとラヴェットをはじめロンドンの指導者は集会を開き、ロンドン労働者協会を設立した[113]。執行部は声明を出して「イギリスには21歳以上の男子が602万いるうち、84万人にしか選挙権が与えられていない」ことを指摘、「将来の奴隷制」(苦汗制度・現代的にはワーキング・プア)の根っこに存在していた腐敗した議会による支配構造を合法的に断ち切って平等な社会を実現させることを目標に、志ある人々の結集を呼びかけた。1838年、1)成人男子選挙権、2)秘密投票、3)毎年選ばれる一年任期の議会、4)議員に対する財産資格の廃止、5)議員への歳費支給、6)十年ごとの国勢調査により調整される平等選挙区の六項目を掲げた『人民憲章』が発表された[114][115]
出典
- ^ 大門実紀史『ルールある経済って、なに?』、新日本出版社、2010年、101頁、ISBN 4406053476
- ^ 水村光男編 『世界史のための人名辞典』 山川出版社 1991年。 p.45
- ^ オウエン自叙伝 (1961) p.13
- ^ 世界の名著 42 (1980) p.20
- ^ オウエン自叙伝 (1961) pp.13-14
- ^ オウエン自叙伝 (1961) pp.15-16
- ^ オウエン自叙伝 (1961) pp.16-17
- ^ オウエン自叙伝 (1961) p.17
- ^ オウエン自叙伝 (1961) pp.18-19
- ^ オウエン自叙伝 (1961) p.20
- ^ オウエン自叙伝 (1961) p.22
- ^ オウエン自叙伝 (1961) pp.28-29
- ^ オウエン自叙伝 (1961) p.29
- ^ オウエン自叙伝 (1961) p.31
- ^ a b 世界の名著 42 (1980) p.21
- ^ 土方直史 (2003) pp.12-13
- ^ 土方直史 (2003) pp.13-14
- ^ 世界の名著 42 (1980) p.22
- ^ 土方直史 (2003) p.14
- ^ 世界の名著 42 (1980) p.23
- ^ a b 土方直史 (2003) p.15
- ^ 世界の名著 42 (1980) pp.23-24
- ^ 世界の名著 42 (1980) pp.24-25
- ^ a b 世界の名著 42 (1980) p.25
- ^ 土方直史 (2003) pp.15-16
- ^ 世界の名著 42 (1980) pp.25-26
- ^ a b 土方直史 (2003) p.16
- ^ a b c 世界の名著 42 (1980) p.26
- ^ a b 土方直史 (2003) p.17
- ^ a b ハチスン&ハリソン (1976) p.6
- ^ ハチスン&ハリソン (1976) p.7
- ^ ハチスン&ハリソン (1976) pp.8-9
- ^ ハチスン&ハリソン (1976) p.10
- ^ ハチスン&ハリソン (1976) p.16
- ^ a b c 世界の名著 42 (1980) p.27
- ^ 土方直史 (2003) 扉
- ^ 土方直史 (2003) p.22
- ^ 土方直史 (2003) p.23 p.26
- ^ 土方直史 (2003) pp.24-25
- ^ オウエン自叙伝 (1961) pp.111-113
- ^ 五島茂 (1973) pp.100-101
- ^ 土方直史 (2003) pp.28-29
- ^ a b 世界の名著 42 (1980) p.28
- ^ 世界の名著 42 (1980) p.29, p.33
- ^ 世界の名著 42 (1980) p.563
- ^ a b c d 世界の名著 42 (1980) p.564
- ^ 世界の名著 42 (1980) pp.539-540
- ^ 土方直史 (2003) p.31
- ^ a b 五島茂 (1973) pp.153-154
- ^ 世界の名著 42 (1980) pp.34-35
- ^ 土方直史 (2003) pp.31-33
- ^ 宮瀬睦夫 (1962) pp.68-69
- ^ 土方直史 (2003) p.32
- ^ 土方直史 (2003) p.33
- ^ 世界の名著 42 (1980) p.34
- ^ a b c 世界の名著 42 (1980) p.36
- ^ 宮瀬睦夫 (1962) p.93
- ^ 五島茂 (1973) pp.158-59
- ^ a b 宮瀬睦夫 (1962) pp.91-92
- ^ 土方直史 (2003) pp.34-35
- ^ 五島茂 (1973) p.166
- ^ 永井義雄 (1993) 表紙
- ^ 世界の名著 42 (1980) p.149
- ^ 土方直史 (2003) p.34
- ^ a b c 世界の名著 42 (1980) p.35
- ^ 五島茂 (1973) p.162
- ^ 宮瀬睦夫 (1962) pp.99-102
- ^ 五島茂 (1973) pp.155-156
- ^ 世界の名著 42 (1980) p.115
- ^ a b マーガレット・コール (1974) p.107
- ^ 五島茂 (1973) pp.164-165
- ^ 宮瀬睦夫 (1962) pp.92-93
- ^ 五島茂 (1973) pp.165-166
- ^ 五島茂 (1973) pp.171-172
- ^ a b マーガレット・コール (1974) p.127
- ^ ハチスン&ハリソン (1976) p.21
- ^ a b ハチスン&ハリソン (1976) p.23
- ^ 五島茂 (1973) pp.198-199
- ^ マーガレット・コール (1974) pp.128-129
- ^ ハチスン&ハリソン (1976) p.24
- ^ a b マーガレット・コール (1974) pp.131-132
- ^ ハチスン&ハリソン (1976) p.25
- ^ G.D.H.コール (1952) p.84
- ^ a b 世界の名著 42 (1980) pp.42-43
- ^ 土方直史 (2003) pp.36-37
- ^ 土方直史 (2003) p.97
- ^ 土方直史 (2003) pp.38-39
- ^ 宮瀬睦夫 (1962) p.123
- ^ a b マーガレット・コール (1974) p.185
- ^ 五島茂 (1973) pp.231-232
- ^ a b c 世界の名著 42 (1980) p.566
- ^ 五島茂 (1973) pp.232-233
- ^ 宮瀬睦夫 (1962) pp.123-124
- ^ 五島茂 (1973) pp.233-236
- ^ a b 世界の名著 42 (1980) p.41
- ^ 宮瀬睦夫 (1962) p.124
- ^ 宮瀬睦夫 (1962) pp.124-125
- ^ マーガレット・コール (1974) p.191
- ^ a b 古賀秀男 (1980) pp.51-53
- ^ 古賀秀男 (1980) p.54
- ^ 古賀秀男 (1980) p.55
- ^ 古賀秀男 (1980) pp.3-4,54-55
- ^ 古賀秀男 (1980) pp.87-89
- ^ 古賀秀男 (1980) p.56
- ^ 浜林/労働運動 (2009) pp.72-73
- ^ a b c 浜林/労働運動 (2009) pp.77-78
- ^ マーガレット・コール (1974) p.235
- ^ 古賀秀男 (1980) pp.48-49
- ^ 古賀秀男 (1980) pp.49
- ^ 古賀秀男 (1980) pp.64-65
- ^ 古賀秀男 (1980) p.63
- ^ 古賀秀男 (1980) pp.56-58
- ^ 古賀秀男 (1980) pp.66-68
- ^ マックス・ベア (1970) pp.45-48
- ^ 古賀秀男 (1980) pp.77-79
- ^ a b 宮瀬睦夫 (1962) p.128
- ^ ハント(2016) p.123
- ^ a b 世界の名著 42 (1980) p.44
- ^ 古賀秀男 (1980) p.53
- ^ 都築忠七(1986) pp.43-53
- ^ マーガレット・コール (1974) pp.224-229
- ^ 宮瀬睦夫 (1962) p.132
- ^ マーガレット・コール (1974) pp.226-228
- ^ 浜林/労働運動 (2009) p.80
- ^ a b 浜林/労働運動 (2009) p.81
- ^ 浜林/労働運動 (2009) p.82
- ^ マーガレット・コール (1974) pp.267-268
- ^ マーガレット・コール (1974) pp.269-270
- ^ マーガレット・コール (1974) pp.270-271
- ^ 宮瀬睦夫 (1962) pp.114-117
- ^ 上田千秋(1984) p.339
- ^ a b 上田千秋(1984) p.340
- ^ 上田千秋(1984) pp.340-341
- ^ 上田千秋(1984) pp.341-342
- ^ Harrison, "Robert Owen's Quest for the New Moral World in America," in (英語: Robert Owen's American Legacy, p. 32.
- ^ Robert Owen (1818). Two Memorials Behalf of the Working Classes. London: Longman, Hurst, Rees, Orme, and Brown
固有名詞の分類
- ロバート・オウエンのページへのリンク