レヒ レヒの概要

レヒ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/24 17:46 UTC 版)

レヒのエンブレム

概要

現在もエルサレム郊外に残る壁の落書き「! הלאה האימפריאליזם האנגלי(イギリスは植民地主義だ!)」

パレスチナからイギリスの支配と移民の制限を廃し、ユダヤ人国家を建設することを目標とした組織であり、イギリス当局からは創設者の名前を取って『シュテルン・ギャング』と呼ばれる[2]。初期はイスラエル国家軍事機関と呼ばれていたが、指導者アブラハム・シュテルン(ヘブライ: אברהם שטרן)の死後、レヒと改名している[3]

レヒはイギリス当局からテロリスト集団として認識されていた[4]。レヒは1944年のカイロにおけるウォルター・モイン(駐カイロ英公使)の暗殺をはじめ、パレスチナのアラブ人イギリス人を狙った攻撃を行っている。1948年7月に国連調停委員のフォルケ・ベルナドッテスウェーデン赤十字総裁)が暗殺されたことで国際連合安全保障理事会は暗殺を行ったレヒのメンバーを「テロリストの犯罪グループ」と呼び[5]、事件の3日後、イスラエル新政府は反テロ法を制定し、機関は禁止された[6]。ベルナドッテに次いで国連調停委員となったラルフ・バンチもレヒを非難した[7]

レヒのメンバーは1949年2月14日にイスラエル政府により大赦を受け、1980年にはレヒの元メンバーのみ着けることを許された『レヒリボン』の勲章が作られ、グループは栄誉を受けている[8]

設立と創設者

アヴラハム・シュテルン

創設者アブラハム・シュテルンはゼエヴ・ジャボチンスキー(英: Ze'ev Jabotinsky、ヘブライ: זאב ז'בוטינסקי)により創始された修正シオニズム運動を支持し、イルグン(ヘブライ: הארגון הצבאי הלאומי בארץ ישראל / ハ-イルグン・ハ-ツヴァイ・ハ-レウミ・ベ-エレツ・イスラエル、設立者はジャボチンスキー)に参加していた。

1940年6月、第二次世界大戦の勃発によりイルグンがイギリスに対する地下軍事行動を止めたことで彼はイルグンを去り、自ら発起者となってイスラエル国家軍事機関(Irgun Tsvai Leumi B'Yisrael)と呼ばれるグループを設立した。これが後のレヒとなる。

イギリスは戦争においてナチス・ドイツと敵対していたが、シュテルンはパレスチナに暮らすユダヤ人はイギリスに対して支援するよりも、戦いを仕掛けるべきだと考えており、また軍事的手段に頼ることでより効率的に目標を成し遂げることができると信じていた。

ゼエヴ・ジャボチンスキー

彼は1939年のマクドナルド白書(英: White Paper of 1939、イギリス国内で決議された、ユダヤ人のパレスチナへの移住や土地の購入を制限する内容の声明)に対しても強く異議を唱えた。彼はパレスチナの最も重要な役割はヨーロッパから逃げ延びて難民となったユダヤ人達の受け皿となることだと考えていた。しかし、彼の旧友ダヴィド・ラズィエル(英: en:David RazielDavid Raziel、ヘブライ: דוד רזיאל)はナチス・ドイツと戦うためにイシューヴ(ユダヤ共同体、この時代のユダヤ人中央暫定政府のこともいう)はイギリス当局を支援すべきとしてシュテルンと袂を分けることになる。シュテルンの考えは国家の建設を妨げる『外国人居留者』のために死ぬ必要はないということだった。しかし、イギリス軍に入隊したラズィエルは1941年、イラクでの任務中、命を落としてしまう。

シュテルンはイギリスを『ユダヤ民族の敵』、ナチスを『ユダヤ嫌悪者』として別格のものと見るようになっていた。シュテルンは前者は敗北すべきであり、後者は利用すべきと考えた。そしてイスラエル新国家建国の際に援助を得ることも視野に入れ、第二次世界大戦での協力を条件にユダヤ人難民を解放する交渉をナチス当局に持ちかけた。

目標と手段

レヒの女性戦闘員(1948年)

レヒは3つの主な目標を定めた。

  1. パレスチナの解放のためイギリス当局との戦いに参加する意思のある者を集める。
  2. 唯一のユダヤの軍事機関として世界に認知される。
  3. 聖書に基づくイスラエルの地を軍隊の力で奪い返す[9]

グループはその黎明期には、その目標がイギリス当局をエレツ・イスラエル(旧約聖書に基づくユダヤの民が神に約束されたとする地、パレスチナのユダヤ人側の呼び名)の地から追放するために国際的な協力を得て、その見返りに軍事力を提供する事により達成されると考えており、そのために「軍事行動を通し、足枷から抜け出す意思を示威する」ための公然かつ、組織化された軍隊を作ることが求められた[10]

レヒの地下新聞『ヘ・ハジット(He Khazit / 戦線)』の中の「テロ(Terror)」という題名の記事で以下のように述べられている。

ユダヤの規範においても、その伝統においても、戦いの手段としてのテロリズムを不適格とされることは無い。我々の国での戦争が続く限り、一切の良心の呵責はない。我々はトーラーの「汝彼らを最後の一人まで滅ぼさん」の言葉に従うのみでその律典は世界のどの法律をも凌ぐ。しかし、まず第一にテロリズムは我々にとって現在の状況に導かれた政治的対立の側面であり、その最適な対決方法でもある。それは占領者との戦いを宣言することで世界中に、そして遠く離れた哀れな同胞達に、はっきりとその意思を伝えることが出来るからである。我々はどう目を凝らしても背教者である敵に対して躊躇は惜しまない[11]

記事にはテロの目標が書かれていた。

  1. 自ら記した法律と、高く積もれた文書に隠れた本当のテロリストに対する示威行動とする。
  2. 標的は民衆ではなく、代表者に対してである。故に、効率的な手段でもある。
  3. 同時にイシューヴの危機感を喚起させることが出来るならなお良い[11]

シュテルンの暗殺後、レヒのリーダーの一人になった、後のイスラエル首相イツハク・シャミル(ヘブライ: יצחק שמיר)は、レヒの行動の正当性を主張した上で

マーティン(メンバーが処刑された報復として、イルグンにより暗殺されたイギリス軍曹の二人のうち一人)を殺害したことをテロリズムと言う人がいます。しかし、軍の陣営を狙うのはゲリラ戦であり、そして、一般人を爆撃することは職務的な戦争といわれます。しかし、私はそれは道徳的観点から見て同質であると思います。数えるほどの人間を殺すより、市民に原爆を落とすことの方がいいことでしょうか?私はそうは感じません。しかし、誰もトルーマン大統領をテロリストだとは言いません。我々が個々に狙っていた、ウィルキン、マーティン、マクミカエル(イギリス植民地相、レヒに襲撃され妻とともに一命を取り留めた)やその他全ての人物は、自ずから我々との戦いに勝つことを望んでいたものたちです。ですから、目標を定めたのは効率面からも、道徳面からも、より理に適うものでした。いずれにしても、我々は小規模だったので、その作戦しかなかったのです。我々にとって、軍の褒章は問題ではなく、目標を成し遂げなければならないという意思の問題でした。我々は政治的に結果を出すことを目指しました。聖書の中にはギデオンサムソンをはじめ、多くの手本があり、グループの考えに影響を及ぼしていました。また他に、ロシアアイルランド革命家ガリバルディチトーなど、彼らの自由のために戦った人物達の逸話からも多くを学びました[12]

と語った。


  1. ^ ELIAHU AMIKAM Stern Gang Leader” (Free Preview; full article requires payment.). ワシントン・ポスト. pp. D5 (1995年8月16日). 2008年11月18日閲覧。 “The [AMIKAM] Stern Gang -- known in Hebrew as Lehi, an acronym for Israel Freedom Fighters -- was the most militant of the pre-state underground groups.
  2. ^ "This group was known to its friends as LEHI and to its enemies as the Stern Gang". Blumberg, Arnold. History of Israel, Westport, CT, USA: Greenwood Publishing Group, Incorporated, 1998. p 106., "calling themselves Lohamei Herut Yisrael (LHI) or, less generously, the Stern Gang". Lozowick, Yaacov. Right to Exist : A Moral Defense of Israel's Wars. Westminster, MD, USA: Doubleday Publishing, 2003. p 78. "It ended in a split with Stern leading his own group out of the Irgun. This was known pejoratively by the British as "the Stern Gang' - later as Lehi" Shindler, Colin. Triumph of Military Zionism : Nationalism and the Origins of the Israeli Right. London, , GBR: I. B. Tauris & Company, Limited, 2005. p 218.
  3. ^ Laqueur, Walter (2003) [1972]. “Jabotinsky and Revisionism” (Google ブックス). A History of Zionism (3rd ed. ed.). ロンドン: Tauris Parke Paperbacks. p. 377. ISBN 9781860649325. OCLC 249640859. https://books.google.co.jp/books?id=NMjh319vnwAC&pg=PA377&dq=history+of+Lehi+stern&ei=ikMjSfHsGoHaygSb46X6Ag&redir_esc=y&hl=ja 2008年11月18日閲覧。 
  4. ^ "Stern Gang" A Dictionary of World History. Oxford University Press, 2000. Oxford Reference Online. Oxford University Press [1].
  5. ^ Security Council 57 (1948) Resolution of 18 September 1948.
  6. ^ Ami Pedahzur, The Israeli Response to Jewish terrorism and violence. Defending Democracy, Manchester University Press, Manchester and New York 2002 p.77
  7. ^ Ralph Bunche report on assassination of UN mediator Archived 2008年5月7日, at the Wayback Machine. 27th Sept 1948, "notorious terrorists long known as the Stern group"
  8. ^ The Stern Gang LEHI - Fighters for the Freedom of Israel Ribbon on the Israeli Ministry of Defence website
  9. ^ Heller, p. 112, quoted in Perliger and Weinberg, 2003, pp. 106-107.
  10. ^ a b Perliger and Weinberg, 2003, p. 107.
  11. ^ a b He Khazit (underground publication of Lehi), Issue 2, August 1943. No author is stated, as was usual for this publication. Translated from original. For a discussion of this article, see Heller, p. 115
  12. ^ Bethell Nicholas , The Palestine Triangle: The Struggle between British, Jews, and the Arabs, 1935–48 (1979), page 278
  13. ^ Amichal, page 316, a copy on the web exists here
  14. ^ a b (ポーランド語) Jakub Mielnik: Jak polacy stworzyli Izrael, Focus.pl Historia, May 5th 2008
  15. ^ a b Perliger and Weinberg, 2003, p. 109.
  16. ^ Boyer Bell, 1996, p. 71.
  17. ^ N. Ben-Yehuda, Political Assassinations by Jews (State University of New York, 1993), p397.
  18. ^ Heller, 1995, p. 86.
  19. ^ David Yisraeli, The Palestine Problem in German Politics, 1889-1945, Bar Ilan University, Ramat Gan, Israel, 1974. Also see Otto von Hentig, Mein Leben (Goettingen, 1962) pp 338-339
  20. ^ A Meeting in Beirut, Habib Canaan, Haaretz (musaf), 3月27日 1970年
  21. ^ Full details depicted in Ada Amichal Yevin, "In Purple", The Life of Yair - Abraham Stern", Hadar Publishing House Tel Aviv, 1986, pp. 225-230
  22. ^ Iviansky 1986, 72-73.
  23. ^ Yitzhak Shamir, 'Why the Lehi Assassinated Lord Moyne', Nation, 32/119 (1995) pp. 333-7 (Hebrew) cited in Perliger and Weinberg, 2003, p. 111.
  24. ^ Israel honours British minister's assassins, The TImes, 6月29日, 1975年, p1.
  25. ^ The Israel Philatelic Federation
  26. ^ http://www.israelphilately.org.il/catalog/series.asp?id=416 (detailed)
  27. ^ Yoav Gelber, Palestine 1948, Appendix II
  28. ^ en:Yoav Gelber (2006), Palestine 1948, p.317.
  29. ^ a b c ベニー・モリス (2003), The Birth of the Palestinian Refugee Problem Revisited, p.239.
  30. ^ ドミニク・ラピエール and ラリー・コリンズ (1971), "O Jérusalem", p.528.
  31. ^ Encyclopedia of Zionism and Israel, ed. Raphael Patai, Herzl Press, McGraw Hill, New York, 1971 Vol. 2, p.733-734
  32. ^ Ami Pedahzur, ‘The Israeli Response to Jewish terrorism and violence. Defending Democracy’, Manchester University Press, Manchester and New York 2002 p.77
  33. ^ Heller, 1995, p. 70.
  34. ^ Perliger and Weinberg, 2003, p. 108.
  35. ^ "Stern Gang" The Oxford Companion to World War II. Ed. I. C. B. Dear and M. R. D. Foot. Oxford University Press, 2001.
  36. ^ Lochamei Herut Yisrael (Lehi), writings, chapter 1, pages 70-71
  37. ^ Amichal, 77
  38. ^ Amichal, 14
  39. ^ Amichal, page 16





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