マン島TTレース マウンテン・コース時代

マン島TTレース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/08 05:11 UTC 版)

マウンテン・コース時代

Philip McCallenとホンダVFR750R

新コースとして設定された37.5マイルのスネーフェル・マウンテン・コース(Snaefell mountain course)での第1回目は1911年に行なわれた。ジュニアTTレースとセニアTTレースの2つに分離され、ジュニアTTレースは300ccの単気筒または340ccの2気筒で4周し、セニアTTレースは500ccの単気筒または585ccの2気筒でを5周した。この年、ジュニアTTレースで35台がエントリーし、ハンバーに乗ったパーシー・J・エバンズが3時間37分7秒/平均時速41.45mphで優勝した。

マウンテン・コースでは乗員と車両の双方に技術的な挑戦が求められた。インディアンは2速ギアボックスとチェーン駆動を採用し、1911年マン島セニアTTでオリバー・ゴドフレイが3時間56分10秒/平均時速47.63mphで優勝した。これに対して、マチレスは6速ベルト駆動で、チャーリー・コリエルが乗り2位となったが、レース後、規定外の給油により失格している。1911年の予選中にビクター・サリッジがラッジに乗りグレン・ヘレンでクラッシュを起こし亡くなっている。

1912年には、単気筒と2気筒の別なく350ccまでがジュニアTTレースとなり、500ccクラスがセニアTTレースとなった。1913年、オートサイクル・クラブの代表がトミー・ラフボローからフレディ・ストレートになり、すぐにレースがより難しく変更された。ジュニアTTレースは2つのレースに分離され、2周と4周になった。セニアTTレースは7周で、ジュニアTTレースの4周組と一緒にスタートした。1914年、ジュニアTTは5周となり、スタート地点もブレイ・ヒルに移動した。これにより競技者のパドックスペースが広く取れるようになった。クラッシュに備えてヘルメット着用が義務付けられた。1914年、ジュニアTTは豪雨の中で開催され、マウンテンコースは霧が発生していた。AJSに乗ったエリック・ウィリアムズが4時間6分50秒/平均時速45.58mphで優勝した。この年、ロイヤル・エンフィールドに乗ったフランク・ウォーカーが事故で亡くなっている。

1920年代-1930年代

マン島でのモーターサイクルレースは第一次世界大戦終了後、1920年に再開した。スネーフェル・マウンテン・コースに変更が加えられ、スタートとゴールはグレンクラチェリーロードに置かれた。コース長は37.75マイルとなった。ジュニアTTレースでは250cc軽量クラスも新設された。1923年のコース変更で議会広場からラムゼイのメイヒルにかけての私道が含まれて、コース長は37.73マイルとなった。スネーフェル・マウンテン・コース の一部は、Creg-na-BaaとHillberryの途中でクラッシュし足の骨を折ったライダー、ウォルター・ブランディシュにちなみ、ブランディシュと名づけられた。

1923年のセニアTTレースは悪天候と地元出身の地の利でトム・シェアードがダグラスに乗り2度目の優勝を果たしている。1923年ジュニアTTレースはスタンレー・ウッズがコットンに乗って優勝した。サイドカーレースの第1回も同時に行なわれ、TTコースを3周した。優勝は運転フレディ・ディクソンと同乗ウォルター・ペリーの組で、特注のダグラス製バンキング=サイドカーで2時間7分4秒/平均時速53.15mphだった。1924年、175ccの超軽量TTレースも行なわれるようになった。これはタイムトライアル形式の2組毎のスタートである他のレースと異なり、競技者全員が一斉スタートした。初回優勝者はニュー・ジェラルドに乗ったジョック・ポーターで平均時速51.20mphだった。1924年のジュニアTTレースではケン・テムローがニュー・インペリアルに乗り優勝し、平均時速は55.67mphだった。同じレースで、ジミー・シンプソンがAJSで35分5秒/64.54mphの新周回記録を出した。これは初めて平均時速が60mphを超えた記録であった。軽量TTおよびセニアTTレースではケン・テムローの兄弟、エディ・テムローがニュー・インペリアルで優勝し、6周を4時間5分3秒/55.44mphで走行した。セニアTTレースもジュニアと同様に記録を更新し、アレック・ベネットがノートンで6周を3時間40分24.6秒/61.64mphで60mph台を達成した。

1926年はサイドカーと超軽量にエントリーが無かったため廃止となった。スネーフェル・マウンテン・セクションを含め、ほとんどのTTコースは舗装された。1926年の変更はアルコールベースの燃料が禁止され、車両用ガソリンの使用が求められた。1927年には予選中にアーチー・バーキン(ティム・バーキンの兄弟)が事故を起こしたカーク・マイケルのコーナーがバーキンズ・ベンドと命名され、1928年から予選時も道を閉鎖して行われるようになった。

1930年(昭和5年)、多田健蔵ヴェロセットKTT(350cc)でジュニアクラスに出場してマウンテン・コースを走り、15位になった。初出場で完走し、年齢が42歳であったことを高く評価されてレプリカ賞を獲得した[8]

WGP

第二次大戦後の1949年FIMロードレース世界選手権(WGP)を開始して、マン島TTレースはイギリスラウンドとして世界選手権シリーズの一戦に組み込まれた。その後もWGPの中でも最も重要な一戦として位置づけられていた。

1954年から1959年まではクリプス・コース(Clypse Course)が使われた。マウンテン・コースの南東に位置する1周17.38kmの公道を使用したロードコースで、マウンテン・コースの一部も使用した。コース名は、人造湖のクリプス湖(Clypse Resevoir)を周回することに因んで名付けられた[9]。1960年からは再びスネーフェルマウンテンコースが使用された。

年々のマシンの性能向上は著しく、1957年にはボブ・マッキンタイヤが初めて100mphを超える平均速度(オーバー・ザ・トン)を記録した。

1959年は日本のホンダが初めて125ccクラスに参戦して完走して谷口尚己が6位入賞、2年後の1961年にはマイク・ヘイルウッドの手によりマン島初優勝を記録した。1963年の50ccクラスではスズキ伊藤光夫が日本人として初優勝した。

マン島TTレースはグランプリの一戦となってからも世界最大のロードレースイベントであり続けたが、一方では60kmに及ぶマウンテン・コースやインターバルスタートといった他のグランプリとは異質な要素が、近代的なサーキットに慣れたGPライダーたちから敬遠されるようになった。また、舗装が荒れていてもコースが長距離に及ぶために改修費用は莫大なものとなる一方で、観客から入場料収入を得ることができない公道コースでは費用の捻出ができなかった。そして、オートバイの速度向上にコースの整備が追いつかず、安全性を重視するライダーはマン島TTレースへの出場を拒否するようになった。ヤマハ1972年はマン島TTレースのみ参加せず、同年ジャコモ・アゴスチーニは「コースが改修されない限り、1973年は出場しないつもりだ」と語った。1973年は有力なチームとライダーは出場しなかった。

そして1976年、FIMは翌年からマン島TTレースをロードレース世界選手権のカレンダーから外し、代わりにイギリスGPとしてシルバーストンでのレースをカレンダーに加えることを発表した。

80年代以降

WGPシリーズから外れたマン島TTレースは市販車ベースのマシンによるレースとなり、1977年からはTTフォーミュラのレギュレーションに沿ったクラスでレースを開催した。1977年のマン島には、WGP時代にマン島レース批判し続けたフィル・リードがエントリーして物議を醸した。しかし、翌年のマイク・ヘイルウッドらトップライダーたち参戦の呼び水ともなり、またジョイ・ダンロップをはじめとする新たなスターライダーも誕生した。

現在[いつ?]、代表的なTTレースのオートバイは空力特性の優れる流線型カウルと技術の向上によりスネーフェル・コースを平均120mph(193km/h)を超えるスピードで駆け抜けていく。平均速度の記録は年々塗り替えられ、2002年にデビッド・ジェフリースが127.29mph(204.81km/h)を記録し、2004年にジョン・マクギネスがヤマハYZF-R1で127.68mph(205.43 km/h)を記録、2006年にマクギネスは129.451mph(208.33km/h)と更に記録を更新した。

TT Zero

MotoCzysz E1pcに乗るマーク・ミラー(2010年)
KOMATTI-MIRAI RACING (2013年)

2008年には世界的な環境問題への関心の高まりから、ティンワルドでゼロエミッションカテゴリが提案され、2009年にテストとして特別レース「TTX」が開催された。チームの参加数や走行性能が未知数であったため、「50分以内にマウンテン・コースを一周(37.773 Miles)」「フロントタイヤを覆うカウル(ダストビン)を許可」など緩い規定が採用された。参加チームも、市販車を改造した大学生チームや地元の有志、フレームまで自社で設計したITベンチャー経営者など多種多様なチームが参戦することになった。なおライダーは他のカテゴリの出走者がボランティアで担当した。

レース当日には多くのチームで漏電やバッテリー上がりなどのトラブルが発生したが、主催者側の予想よりも車体の完成度や平均速度が高いチームが多かったため、2010年からは正式カテゴリの「TT Zero」として継続が決定した。またテストではあったが、アメリカ人ライダー(Thomas Montano)がアメリカ製のバイク(Mission One)で初めて優勝した。

TT Zero第一回レースでは、アメリカ人ライダー(マーク・ミラー)がアメリカに本社を置くモトシズ社のオリジナル車両E1pcで優勝、地元チームの「Man TTX Racing」が3位、キングストン大学の学生チームが4位になっている。

環境PRのイベントとしてスタートしたが、2012年にはM-TECが、2013年からはヤマハが参戦するなど、現在では本格的なレースに発展している。

なお、出走するバイクは「CO2の排出量がゼロ」という条件だったが、事実上は電動バイクのカテゴリとなった。

パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムでも電動バイクのカテゴリが新設され、TT Zeroに参戦するチームも出走している。


注釈

  1. ^ 2013年以降はFIA 世界耐久選手権 (FIA WEC) のシルバーストン6時間レースに懸けられている。

出典

  1. ^ a b マン島TT: スペイン人ライダーのラウル・トラス・マルティネスがスーパーツインのクラッシュで死亡”. www.motorcyclesports.net (2023年6月6日). 2023年7月21日閲覧。
  2. ^ 1905 Tourist Trophy Race - Grace Guide
  3. ^ Isle of Man TT Races - Grace Guide
  4. ^ 『百年のマン島』(p143 - p145)
  5. ^ ENCYCLOPEDIA Britannica "Tourist Trophy races"[1]より。
  6. ^ 『百年のマン島』(p147)
  7. ^ Competitors"Isle of Man TT OfficialWebsite"[2]より。
  8. ^ 『百年のマン島』(p194 - p198)
  9. ^ 『百年のマン島』(p98 - 99)
  10. ^ マン島TTでライダーの死亡事故が発生。計21戦出場の実力派マルティネスが命を落とす……昨年度には6名の死者が”. jp.motorsport.com (2023年6月6日). 2023年7月21日閲覧。
  11. ^ nikkansports.com (2013年5月28日). “日本人レーサーがオートバイレース事故死”. 2013年5月28日閲覧。





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