ペンブルック城 歴史

ペンブルック城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/29 03:08 UTC 版)

歴史

ペンブルック城は、初期鉄器時代には居住地としての砦があった場所とも考えられ[42]、少なくともローマ時代ローマン・ブリテンとして占領されていた場所に立地している[42][43]

ノルマン朝

11世紀1066年ヘイスティングズの戦いの後[6]ウィリアム1世ノルマンディー公ギヨーム[44])のいとこで侵攻に携わったシュルーズベリー伯ロジャー・ド・モンゴメリー英語版が、1093年、ここに最初の木造の城を築いた[30][45]。翌1094年にロジャーが亡くなると、5人の息子のうち末子のアーノルフ・ド・モンゴメリー英語版が城を引き継いだ[14][29]。土と木だけで築かれたこのペンブルックの城塞は、ウェールズの攻撃、1094年や1096年の包囲(攻城戦)にも耐えた[14]。その要塞は南西ウェールズのノルマンの支配する地の中心に構築され[16]、アーノルフ・ド・モンゴメリーは、ペンブルックの城代 (castellan) としてジェラルド・ド・ウィンザー英語版を任命した[14]

1100年ウィリアム2世が急死すると[46]、アーノルフ・ド・モンゴメリーは、1102年[29]、ウィリアム2世の弟で後継者のヘンリー1世に反抗し、兄のロバート・オブ・ベレーム英語版に加勢したが、反乱が失敗すると、アーノルフは追放された[14]。ヘンリー1世は城代を指名したが、選ばれた同族者が役に立たないことが分かると、王は1102年のうちにジェラルドを再任した。

1135年にヘンリー1世が亡くなり[47]1138年には王スティーブンが、ペンブルック城と伯爵の位をギルバート・ド・クレア英語版(異名ストロングボウ、‘Strongbow’)に与えて[48]、ペンブルックはノルマン人のアイルランド侵攻の重要な拠点として使用された[49]

アンジュー朝

1189年リチャード1世は、ギルバート・ド・クレアの孫娘であるイザベルと、ウィリアム・マーシャルとの結婚を支持した[48]1200年、城ならびにペンブルック伯の称号をともに受けると、13世紀初頭の[6]1201年より[50]、ウィリアム・マーシャルは城を石材で再構築し、同時に巨大なキープ(天守)を設置した[15]1219年にウィリアムが亡くなると、マーシャル家は、ウィリアムの5人の息子にそれぞれ順に引き継がれた[48]。その3番目の息子であるギルバート・マーシャル英語版は、1234-1241年に城の拡張とさらなる強化に携わった[30]。マーシャルの息子は皆、子のないまま亡くなった[51][52]

ウィリアム・ド・ヴァランスが城守とその家族に食事を振る舞う場面を描写した展示

1247年、城はウィリアム・マーシャルの孫娘のジョアン (Joan de Munchensi) との結婚によりペンブルック伯になったウィリアム・ド・ヴァランスヘンリー3世の異父弟[53])に継承された[6][30]。ド・ヴァランス家は70年間にわたりペンブルックを支配した[30][48]。この間、ペンブルックの町は防御壁に、3か所に表門、1か所に裏門 (postern) を備えて要塞化された[16][30]。ペンブルック城は、1277年から1295年にかけてエドワード1世による北ウェールズ英語版の征服 (conquest) の際に、ウェールズグウィネズ王国英語版)公と戦うためのド・ヴァランスの軍用基地となった。

ウィリアム・ド・ヴァランスの息子、エイマー・ド・ヴァランス英語版1324年に亡くなると、城はヘイスティングス家との結婚を通してローレンス・ヘイスティングス英語版に引き渡された[54][55]。しかし1389年、17歳のジョン・ヘイスティングス英語版馬上槍試合ジョスト)で事故死したことで、250年にわたる一連の継承の終わりを迎えた[16]

城における後のイングランド王ヘンリー7世の誕生を描いた展示

ペンブルック城は、次いで王リチャード2世に戻った[30][56]。間もなく短期的な借地権が、その所有のために国王より付与された[6][57]1400年には、オワイン・グリンドゥールがウェールズで反乱を開始した[58]。しかし、ペンブルックは、城守のフランシス・ア・コート (Francis а Court) が、グリンドゥールにデーンゲルド英語版(租税〈ヘレゲルド[59]heregeld〉)に相当する賄賂を支払ったことから攻撃を免れた[6][30]

その後、城ならびに伯爵の称号がジャスパー・テューダー[30]1454年、異父兄のヘンリー6世より贈られた[56][60]。テューダーは寡婦となった義理の妹、マーガレット・ボーフォートをペンブルックに連れて行くと、1457年1月28日に13歳(12-14歳[39])のマーガレットは[56]、イングランド王ヘンリー7世になる唯一の子ヘンリー・テューダー(ウェールズ語: Harri Tudur)を出産した[15][61]

15世紀、ペンブルック城は薔薇戦争における1461-1462年ヨーク派の勝利のうちに、エドワード4世よりウィリアム・ハーバート英語版に貢献の見返りとして与えられている[60][62]

テューダー朝以降

1485年にヘンリー7世が即位すると[61]、ペンブルックは再びジャスパー・テューダーに授与された[63]1495年にチューダーが亡くなり、その後、個人の居城ではなくなったが[56]イングランド内戦の勃発まで、城の場所は平穏であった[64]。しかし、1642年からの内戦の際、南ウェールズの大部分は国王チャールズ1世の味方であったが、ペンブルックは議会(円頂党)に賛成の意を示した[65]1644年[66]、町は王党派の部隊により包囲されたものの、議会の援軍が近隣のミルフォード・ヘイヴン英語版から船で到着して救われた。議会派軍はその後、テンビー英語版ハーバーフォードウェスト英語版カルー英語版の王党派の城を占領していった。

1890年代のペンブルック城

1648年第二次イングランド内戦 (Second English Civil War) の開始に、ペンブルックの司令官ジョン・ポイヤー英語版大佐は、テンビー城のパウエル大佐、チェプストウ城英語版ニコラス・ケミーズ英語版と並んで王党派の反乱を先導した[67]。議会派より派遣されたオリバー・クロムウェル[68]、同年5月24日、6000人の兵とともにペンブルックに到着すると、2か月(7週間)の包囲戦英語版の後[69]、7月11日の降伏により[70]、城を占領した。王党派による反乱の3人の指導者は反逆で有罪とされ[71]、クロムウェルは城を火薬などで破壊するよう命じた[69]。また、町の住民は要塞を解体し、その石材を各用途に再使用することが一様に奨励された[16]

城は、その後放棄され、石材が略奪されたことで、1880年まで廃墟のままであったことから[69]好古家ジョセフ・コブ (Joseph Cobb) により[72]、3年間の修復事業が行われた[30]1928年までそれ以上のことは何もされなかったが、アイヴァー・フィリップス英語版少将が城を取得すると[72][73]、城壁、ゲートハウスならびに塔の大規模な修復が開始された[30]。彼の死後、フィリップス家とペンブルック・タウン評議会英語版 (Pembroke Town council) により共同で城を管理するためのトラスト (Pembroke Castle Trust) が設立された。


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