ベルリン会議 (1878年)
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影響
ビスマルク体制下
ロシアはこれ以降、サン・ステファノ条約修正を不服とし三帝同盟を脱退した。ただし、ドイツのビスマルクはフランスとロシアに対する二正面作戦を避けるために、ロシアと独露再保障条約を締結している。
ビスマルクは"誠実な仲介人"を自称し中立を宣言していたが、ベルリン条約でロシアが得た利益を認めたものの、ロシア南下政策を否定するイギリスを終始支持した。ドイツは、1882年に三国同盟を結成してフランスを孤立化させ、1885年に日本にメッケルを派遣してロシアの東アジア進出を牽制し、狙い通り日露戦争でロシアの進出を阻むことに成功した。
セルビアはサン・ステファノ条約で得た領土が維持されることを期待していたが、頼みの綱であるロシアは会議のあいだセルビアに対し冷淡な態度をとりつづけた。このため、会議後セルビアはオーストリア・ハンガリーに接近していった。
またテッサリアの帰属を巡るギリシャ・トルコ間の国境紛争については解決が図られなかった。1881年にテッサリアとイピロス南部の一部がギリシャ領となった。
ビスマルクの引退後
1890年にビスマルクが引退してベルリン条約の秩序が再び崩れると、ロシアは独露再保障条約の更新を拒まれたため、普仏戦争以降孤立化していたフランスに接近して1894年に露仏同盟を結び、対独包囲網の結成を模索した。また、バルカン半島における南下政策を諦めて東アジア進出を目論むようになった。ところがドイツは外交方針を変更して、東アジアでロシア・フランスと手を組み三国干渉(1895年)を行った結果、日英同盟(1902年)が結ばれたのを皮切りに欧州でも英仏協商(1904年)・英露協商(1907年)が結ばれ、対独包囲網三国協商が形成されるのを許した。
ギリシャ・トルコ間ではその後も係争が続き、希土戦争につながっていく。自民族居住地域の併合を目指すバルカン諸国はマケドニアにおける権利を主張し、その後のバルカン戦争などで領土の拡大を目指していくこととなった。
セルビアとオーストリア・ハンガリーの関係は1908年のボスニア・ヘルツェゴビナ併合で悪化した。さらに1912年に反オスマン同盟のバルカン同盟が結成され、1913年のバルカン戦争で勝利したことによってセルビアのナショナリズムが高揚すると、セルビアとオーストリア・ハンガリーの関係は第一次世界大戦の導火線へと変貌した。
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