フェルディナント・マリア (バイエルン選帝侯) フェルディナント・マリア (バイエルン選帝侯)の概要

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フェルディナント・マリア (バイエルン選帝侯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 10:10 UTC 版)

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フェルディナント・マリア
Ferdinand Maria
バイエルン選帝侯
フェルディナント・マリア(ポール・ミニャール画)
在位 1651年9月27日 - 1679年5月26日

出生 (1636-10-31) 1636年10月31日
神聖ローマ帝国
バイエルン選帝侯領、シュライスハイム宮殿
死去 (1679-05-26) 1679年5月26日(42歳没)
神聖ローマ帝国
バイエルン選帝侯領、シュライスハイム宮殿
埋葬 神聖ローマ帝国
バイエルン選帝侯領ミュンヘン、テアティナー教会
配偶者 エンリエッタ・アデライデ・ディ・サヴォイア
子女 一覧参照
家名 ヴィッテルスバッハ家
父親 マクシミリアン1世
母親 マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ
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フェルディナント・マリア

生涯

1650年サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世の娘エンリエッタ・アデライデと結婚し、マクシミリアン2世エマヌエルマリア・アンナフランス王太子ルイ妃)ら7子をもうけた。翌年に父が死去、幼少のため1654年まで叔父のロイヒテンベルク公アルブレヒト6世が摂政を務めた。

1657年、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世が亡くなり帝位が一時的に空位となり、フランス宰相マザランから次の皇帝に即位するよう勧められるも拒絶、翌1658年レオポルト1世が即位した。1662年から1664年オスマン帝国との戦争ではバイエルン軍を派遣したが、フランスとの提携も重視、1672年からのオランダ侵略戦争では中立を通し、娘マリア・アンナをフランス王ルイ14世の王太子に嫁がせている(ただし、実現したのはフェルディナント・マリア死後の1680年)。

内政では三十年戦争で荒廃したバイエルンの復興に取り組み、農業・産業の奨励、教会・修道院の修復や軍の近代化も図った。また、ミュンヘンニンフェンブルク宮殿を建設、ヨハン・カスパール・ケルルアゴスティーノ・ステッファーニパトロンにもなっている。

1679年、42歳で死去。息子のマクシミリアン2世が選帝侯位を継いだが、幼いため弟のマクシミリアン・フィリップ・ヒエロニムスが摂政を務めた。

子女

先代:
マクシミリアン1世
バイエルン選帝侯
1651年 - 1679年
次代:
マクシミリアン2世エマヌエル



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