ニコラエ・チャウシェスク 1989年12月

ニコラエ・チャウシェスク

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1989年12月

ティミショアラ

12月15日 - 12月17日

1989年12月16日、ティミショアラでの抗議運動の様子
ティミショアラで逮捕された者たち
ティミショアラにある劇場前に現われた戦車

1989年12月15日、ルーマニア政府は、ティミショアラ(Timișoara)に住むハンガリー人牧師トゥーケーシュ・ラースローに対して教区から立ち退くよう命じた。12月16日、ハンガリー人の改革派教会の教区民が教会の前に集結し、トゥーケーシュへの立ち退き命令に対する抗議運動を開始した。共産党当局に忠実なトランスィルヴァニアの司教により、トゥーケーシュは住宅に住む権利を剥奪され、別の場所への追放を命ぜられた。1989年7月24日、ハンガリーのテレビ局がトゥーケーシュを取材し、彼はこれに応じた。この行動は改革派教会とルーマニア政府を怒らせた。司教はトゥーケーシュを解任し、別の場所に移住するよう通告した。トゥーケーシュがこの決定を拒否すると、司教はトゥーケーシュが住んでいた建物(改革派教会の教区が所有する家)からの立ち退きを求める訴訟を起こした。1989年10月20日、ティミショアラ裁判所は、「トゥーケーシュ・ラースローは自宅から立ち退くように」とする趣旨の判決を下し、トゥーケーシュはこれを不服として控訴した。1989年11月28日、ティミショアラ裁判所はトゥーケーシュによる控訴を棄却した。トゥーケーシュは教区民に対し、12月15日の金曜日に自分は立ち退かされる趣旨を発表した。12月11日の月曜日、彼は郡の党委員会から呼び出され、退去日が12月18日の月曜日に変更されることを教区民に知らせるように、との通告を受けた[111]。チャウシェスクは12月17日にルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会の臨時会議を招集し、トゥーケーシュについて「ある改革派の司祭が、彼自身のせいで制裁を受けた。ティミショアラから別の郡に移り、住んでいた家を去らねばならない、いうものである。彼は自宅を明け渡すことを望まなかった。司教は裁判所に訴え、裁判所は彼を立ち退かせる決定を下した。これには長い時間を要した。昨日、裁判所命令が執行されようとしたが、司祭は団体を組織した。これはブダペストを始めとする外国の諜報組織による妨害である。彼は外国からの取材にも応じているのだ」と述べた[112]。16日の日中までに、教会の前にプロテスタントの信者の集団ができあがり、ティミショアラでは通行人がこの集団に加わり、群衆は徐々に規模を増していった。ティミショアラの市長、ペトレ・モーツ(Petre Moț)がトゥーケーシュの立ち退き命令に反対する旨を文書で確認するのを拒否すると、群衆は反共主義の標語を唱和し始めた。聖マリア広場では路面電車が止められ、イオン・モノランルーマニア語版、ダニエル・ザガネスク(Daniel Zăgănescu)、ボールビー・ラースローハンガリー語版らが、反共産党を訴える演説を行った。ダニエル・ザガネスクは路面電車に乗り、「Ma numesc Daniel Zăgănescu si nu mi-e frica de Securitate. Jos Ceausescu!」(「私はダニエル・ザガネスクと申します。私はセクリターテなぞ恐れてはいない。チャウシェスクを倒すのだ!」)と叫んだ[113]

トゥーケーシュへの立ち退き命令に抗議する意味で、蝋燭を灯した人々が現われ、抗議は拡大を続けた。午後9時、セクリターテの長官、ユリアン・ヴラードロシア語版はこの反乱を鎮圧するため、上級作戦部隊をティミショアラに派遣した[114]。抗議者たちはティミショアラ正教大聖堂(Catedrala Mitropolitană din Timişoara)の周辺を移動し、市内を行進し、治安部隊と再び対峙した。午後9時から午後11時30分にかけて、民兵、諜報員、消防士、国境警備隊で構成された部隊が180人を逮捕した[114]

12月17日午前9時、陸軍参謀本部の工作員の集団が市内に到着した。トゥーケーシュ・ラースローは、妻とともに夜中のうちに強制退去させられていた。午前11時、ティミショアラでの抗議運動の参加者は、いつしか数千人にまで膨れ上がっていた。中心部にある本屋の窓ガラスが割られ、チャウシェスクを賛美する本は酷く損壊された。国防大臣で将軍のヴァスィーレ・ミーラ(Vasile Milea)は、ティミショアラ市内にあるルーマニア共産党本部の建物を、400人の兵士で守るよう命令を出した。午後1時30分、ミーラは「ティミショアラの状況は悪化の一途を辿っています。軍による介入命令をお願い致します。軍は戦闘状態に突入します。ティミショアラ郡にて非常事態が進行中です」と報告した[114]。軍隊に対して命令を出せるのは、法的にはニコラエ・チャウシェスクだけであった。チャウシェスクは、ユリアン・ヴラードに2回、ヴァスィーレ・ミーラに少なくとも6回電話し、ティミショアラでの暴動を腕ずくで迅速に鎮圧するよう指令を出した[115]。午後1時45分、ティミショアラの通りに戦車が現われた。午後4時頃、抗議者たちは郡の党委員会の建物に闖入し、党の文書、宣伝用の小冊子、チャウシェスクの著書、共産党の権力の象徴であるこれらを窓から次々に投げ捨てた。彼らは建物に火を付けようとしたが、これは軍の部隊に阻止された。午後4時30分、チャウシェスクは、首都・ブクレシュティにてルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会の臨時会議を招集し、ティミショアラでの出来事について、国防大臣たちと議論し始めた。チャウシェスクは、反乱の鎮圧を躊躇したトゥドール・ポステルニクロシア語版、ヴァスィーレ・ミーラ、ユリアン・ヴラードを非難した[116]。チャウシェスクはヴァスィーレ・ミーラに対し、「ミーラよ、あなたの部下は何をしていたのか。なぜすぐに介入しなかった?なぜ撃たなかった?部下に足元を撃たれてもおかしくないはずだ」と質問した。ミーラが「私はいかなる種類の弾薬も与えませんでした」と答えると、チャウシェスクは「なぜ与えなかったのか?そんなことなら、部下を家に帰したほうがましだ」と非難した[112]。また、チャウシェスクは閣僚たちに対し、「あなたがたは私に事実を告げようとしない。今になってようやく話してくれたが、それまでは誤った情報を伝えてきたのだ!」と非難の言葉を浴びせた[11]。チャウシェスクは、治安部隊に対して発砲命令を出さなかったユリアン・ヴラードに対し、怒りを込めて応酬した。「あなたのやったことは、国家の利益、人民の利益、社会主義の利益に対する裏切りだ。責任ある行動を取らなかったのだ」「あなたにいかなる処罰を与えるべきか、分かるか?銃殺刑だ。それこそがあなたにふさわしいのだ。あなたのやったことは、敵と手を結んだも同然の行為だからだ!」[115]

ヴァスィーレ・ミーラは、チャウシェスクから抗議者を撃てとの指令を受けたが、ミーラはこれを陸軍部隊に伝令するのを拒否した。ミーラは「軍規を確認しましたが、人民軍は人民を撃ち殺せ、との記述がある項目はどこにも見当たりませんでした」と発言した[11][115][117]

チャウシェスクは、反逆者を撃つよう命じた。この命令を出したチャウシェスクに対し、国防大臣、内務大臣、セクリターテの長官は初めて反対を表明した。チャウシェスクは、自分に対する彼らの忠誠と服従を疑い、3人に対して「役職を解任する」と発言したが、閣僚評議会議長のコンスタンティン・ダスカレスクはこれに反対し、彼ら3人への支持を表明した。チャウシェスクは怒りを露わにし、「ならば私は書記長を辞任する。別の人物を書記長に選出するが良い!」と言い、会議室から出て行った。エミール・ボブロシア語版とコンスタンティン・ダスカレスクがチャウシェスクのあとを追いかけ、部屋に戻るよう懇願した[116]。数分後、チャウシェスクは会議室に戻り、会議を続けた。チャウシェスクは、ティミショアラの党代表と緊急の電話会議を実施し、民間人に対する発砲命令を出した[10]。チャウシェスクは将軍のイオン・コーマン(Ion Coman)を司令官に任命し[116]、12月17日午後3時30分、国防省と内務省の将官の代表団がティミショアラに派遣された。午後6時、ジロクルイ(Girocului)にて、参謀総長シュテファン・グーシャ(Ştefan Guşă)の命令により、道を塞がれた戦車を回収する名目で、抗議者に対して発砲が始まった。午後6時45分ごろ、ティミショアラの部隊は、信号「Radu cel Frumos」を受けた。これは「軍隊に戦争弾薬を装備させ、戦闘態勢に切り替えよ」との指令であった[114]。ティミショアラでは、国防省の部隊による発砲がついに開始され、数時間で300人を超える人々が撃たれた。

トゥーケーシュ・ラースローは、1989年7月にハンガリーのテレビ局の取材訪問で「ルーマニア人は自分たちの人権さえも知らないのだ」と発言していた。2008年にトゥーケーシュが語ったところでは「これは、独裁者であるチャウシェスクを支持する必要は無いのだ、ということを伝えるものでした。チャウシェスクの仮面を剥ぎ取るためにどうしても必要だったのです」という[118]

1989年12月22日、トゥーケーシュ・ラースローは救国戦線評議会の委員の1人に任命された。

12月18日

12月18日午前5時30分、ティミショアラの部隊の司令官、イオン・コーマンは、現地の状況について「取り締まりの最中にあります」とブクレシュティに報告した[114]。この24時間で、ティミショアラでは66人が死亡し、300人近くが負傷した。この日、チャウシェスクはイランを訪問する予定があった。午前8時、チャウシェスクは「イランへの訪問を取り消す必要は無い」と判断し、テヘランに出発した。午後3時から午後4時にかけて、抗議者が殺されたことに激怒した労働者の大規模な集団が、市内の中心部に移動していた。午後5時から午後7時にかけて、蝋燭を手にした者たちが大聖堂の階段に集結した。将軍のミハイ・チツァックルーマニア語版は兵士たちに発砲を命じ、自らも民間人に向けて発砲した。7人が死亡し、98人が負傷した。

12月19日

12月17日から18日の夜にかけて、ティミショアラの郡病院にて、撃たれて死亡した者たちの遺体が安置された。12月19日、エレナ・チャウシェスクとイオン・コーマンの命令に基づき、遺体安置所に安置されていた58体の遺体のうち、43体が冷凍トラックに積まれ、ブクレシュティに移送された。彼らの遺体は火葬され、その遺灰は水路に投げ捨てられた。弾圧された痕跡を残さないようにするのが目的であった。エレナ・チャウシェスクはこれを「Operaţiunea Trandafirul」(「バラ作戦」)と名付けた[114]。午前7時から午後12時、数千人の労働者が街頭に繰り出していた。ティミショアラでの抗議運動ははもはや止めることが不可能になっていた。午後1時50分、シュテファン・グーシャは兵士たちに対し、兵舎への撤退を命じた。

12月20日

午前9時、抗議者の集団は数万人規模にまで膨らんでいた。ティミショアラの中心部にある劇場広場に集結した群衆は「独裁者を倒せ!」「自由を!」「神がおわします!」「軍隊は我々の味方だ!」と唱和した。午後12時、ティミショアラの中心部には、およそ15万人の抗議者がいた。彼らは兵士に差し入れを送った。午後12時30分、抗議者数人が劇場の桟敷を開放し、その直後に「主の祈り」の唱和が始まった。拡声器を通じて「ティミショアラは共産主義から解放されたルーマニアの最初の都市である」と宣言された。午後2時30分、閣僚評議会議長のコンスタンティン・ダスカレスクロシア語版がティミショアラに到着した。抗議者たちは、国の指導者の立場にある者たち全員の辞任、自由選挙、ティミショアラでの殺害の責任者を裁判にかけるよう要求した。

イランを訪問中のチャウシェスクは、自国からの連絡を受けて急遽帰国するに至った。午後5時、イランから帰国し、状況がますます悪化していることを知ったチャウシェスクは、ヴィクトル・アタナスィエ・スタンクレスクルーマニア語版をティミショアラの司令官に任命するとともに、非常事態宣言を布告した。午後7時、チャウシェスクはルーマニア共産党中央委員会の建物の内部にあるテレビ放送室で、ルーマニア国民に向けて演説を行い、ティミショアラで発生した出来事について、「非常に深刻な事態だ」とし、ティミショアラの抗議者たちについて「ごろつきの集団」と呼び[116]、「社会主義革命に敵対する者たちである」と非難した。チャウシェスクはまた、「ティミショアラで始まった暴動は、ルーマニアの主権を有名無実化させようと企む帝国主義者の団体と外国の諜報機関からの支援を受けて組織されたもの」であり[9][13]、「社会主義の恩恵を潰し、外国人の支配下に置かれていたころのルーマニアに戻さんとする企みである」とも訴えた[10]。チャウシェスクは、「ごろつきどもは、国を不安定にし、領土を分断し、国家の独立と主権を破壊し、社会主義の発展の破壊と外国人による支配下の時代への回帰を目的とし、『ファシスト型』の破壊を惹き起こしている。計画的にもたらされた現在の状況は、ソ連によるチェコスロヴァキアへの軍事侵攻に似ており、外国の工作員と『はした金で国を売る』内部のルーマニア人による協力のおかげで可能となったのだ」と演説した[116]

12月21日の演説

銃で撃たれて死んだ抗議者(1989年12月21日
ブクレシュティ市内に出動した戦車

1989年12月21日午前9時、首都・ブクレシュティの中心部、革命広場にて、抗議者の群衆がルーマニア共産党中央委員会の建物の前に集結した。チャウシェスクがこの集会を開こうと決めたのは、「自分はまだ国民から支持されている」との自信があったからである[116]。午前11時、集会が始まった。午後12時、チャウシェスクが建物の桟敷に姿を現わし、演説を始めた。

ところが、演説が始まってまもなく、群衆の中で突如爆竹が炸裂し、騒ぎが勃発したことで、チャウシェスクは演説を中断せざるを得なくなった。救国戦線評議会の委員の1人、カズィミール・イオネスクルーマニア語版がのちに語ったところによれば、「ニコラエ・チャウシェスクの演説を妨害する目的で特別に編成された集団の存在があったのだ」という[9]。ルーマニアの日刊紙『România Liberă』(『自由ルーマニア』)は、「12月21日のチャウシェスクの演説を『台無しにした』のは誰だったのか?については、ティミショアラからブクレシュティに移動してきた集団の仕業である」と報道している[119]

チャウシェスクは群衆に何度も「Allo!」と呼びかけて静粛にするよう促し、群衆を落ち着かせようとした。エレナ・チャウシェスクやセクリターテの職員も「聞こえないのか?静かにせよ!」と群衆に向けて怒鳴った。群衆が一旦静かになると、チャウシェスクは再び演説を続けた。チャウシェスクはこの演説の中で「最低賃金200レイ、年金100レイ、社会扶助300レイ、児童手当30 - 50レイ、出産手当1000 - 2000レイの引き上げの実施を約束する」と発表した。これは前日招集したルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会でチャウシェスク本人が提案した内容であった[116]。しかし、騒ぎはますます大きくなり、チャウシェスクは混乱と戸惑いの表情を隠せずにいた。チャウシェスクは建物の中に引き戻された。チャウシェスクは郡党委員会の第一書記と電話会議を行い、「ここ数日の一連の出来事は、国を不安定にさせ、ルーマニアの独立と主権に対する組織的な策動の結果である」と宣言し、党と国家権力、民兵、治安部隊、軍隊を総動員するよう求めたうえで、「我々は、この出来事の正体を暴き、断固として拒否し、始末を付けねばならない」と述べた。革命広場から出た者たちは恐慌状態に陥り、革命広場周辺の通りに集まると、「独裁者を倒せ!」「チャウシェスクよ、お前は誰だ? - スコルニチェシュティ出身の極悪人だ!」との唱和を始めた。

午後4時、ホテル『Intercontinental』の前にいた群衆に、ルーマニア国防省のトラックが制御不能状態で突っ込んだ。これにより、7人が死亡し、8人が負傷した[114]

午後6時、抗議者2000人が大学広場(Piața Universității)に障害物を設置した。午後8時、治安部隊が抗議者たちに発砲し始め、彼らを次々に逮捕していった。午後11時、ヴァスィーレ・ミーラが障害物を撤去するよう命じた。抗議者たちは地下鉄で逃げようとするも、治安部隊に捕らえられ、拷問された。その中には、子供、女性、老人も含まれ、駅の階段や乗降口には血が飛び散っていた。この過程で50人が殺され、462人が負傷し、1245人が逮捕され、ジラーヴァ刑務所に移送された。ニコラエとエレナの二人は、ルーマニア共産党の建物の中で過ごした。午前1時ごろ、ヴァスィーレ・ミーラとユリアン・ヴラードは、ブクレシュティの中心部から抗議集団が一掃された趣旨を報告した[120]

12月22日

1989年12月22日の午前3時から午前5時にかけて、消防車や清掃車が出動し、大学広場や地下鉄の階段、周辺の通路に付着した血痕を洗い流していた。ブクレシュティで抗議者たちが弾圧されたという知らせは瞬く間に拡がり、反チャウシェスクの気運はますます増幅していた。午前7時、労働者・抗議者の集団がルーマニア共産党中央委員会の建物に向かった。建物は約1000人の兵士が警護していた。午前9時、ニコラエ・チャシェスクは、ユリアン・ヴラードとヴァスィーレ・ミーラに対し、抗議の群衆がこの建物に接近するのを何としてでも阻止するよう指示を出した。午前9時30分ごろ、ヴァスィーレ・ミーラが心臓を銃で撃ち貫いて死んでいるのが発見された。ミーラの死を知らされたチャウシェスクは酷く動揺し、「ミーラ将軍は国家と国民を裏切った」と述べた。午前9時45分、ルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会の会議が始まった。チャウシェスクは「ミーラ将軍が、私のもとを離れた2分後に自殺したことを知らされた」と述べた[120]。死ぬ直前のミーラと会話したコルネリウ・プルカラベスクルーマニア語版によれば、ミーラは「私はニコラエ・チャウシェスクから国民を撃つよう命じられた。自国民への射殺命令は、私には出せない」と語っていたという[121]。チャウシェスクは「直ちにルーマニア全土に非常事態宣言を布告する。これは憲法に則ったものであり、大統領の権限でもある。国家評議会を招集するには及ばん」と述べた。コンスタンティン・ダスカレスクは「誠実な労働者を撃っていいものかどうか」と疑問を呈し、それに対してトゥドール・ポステルニクは「我々が発砲すべき相手は誠実な労働者ではなく、出来損ない連中やクズどもです」と述べた。チャウシェスクは、「もちろん、労働者に銃を向けるわけにはいかない。我々は労働者の代表なのであり、労働者を撃つことは無い。しかし、なかには卑怯者もいる。裏切り者のミーラに責任を負わせる。他にもいるかもしれんな」と答えた[120]

チャウシェスクは、ルーマニア全土に非常事態宣言を布告した。この布告が国営テレビとラジオの放送で読み上げられたあとに「国防大臣が、ルーマニアの独立と主権に反する裏切り行為を働き、それが露見するのを悟って自殺したことをお知らせ致します」と報道された[122]。ヴァスィーレ・ミーラが死んだため、チャウシェスクは、ティミショアラから戻ってきたヴィクトル・アタナスィエ・スタンクレスクを新たな国防大臣に任命した。しかし、スタンクレスクはチャウシェスクに忠誠を示す一方で、他方では二重の駆け引きを始めた。午前10時7分、彼は軍隊に対して兵舎への引き揚げ、ならびに抗議者の群衆と「対話」するよう命じた。

チャウシェスク夫妻の逃亡

チャウシェスク夫妻が逃亡したあとに群衆が占拠したルーマニア共産党中央委員会の建物
群衆に語り掛けるペトレ・ロマン

ヴァスィーレ・ミーラの死を発表してまもなく、チャウシェスクはルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会の臨時集会を招集し、チャウシェスク自ら軍の指揮を執る趣旨を発表した。ルーマニア共産党中央委員会の建物の前には5万人の群衆が集まっていたが、その数はさらに増えていた。午前11時30分ごろ、チャウシェスクは桟敷に姿を現わし、拡声器を手に取り、群衆に向けて演説を行おうとしたが、彼らの怒りを買っただけであった。セクリターテの長官、マリン・ナゴエ(Marin Neagoe)はヘリコプターの手配を要請した。抗議者たちが建物内に侵入し始めた。午後12時6分、大群衆が見守る中、チャウシェスク夫妻と護衛の乗ったヘリコプターが、建物の屋上から離陸していった[123]。抗議者たちは、ニコラエとエレナの肖像画を窓から投げ捨てた。軍隊は群衆の側に付き、セクリターテとの対決姿勢に入っていた。12時30分ごろ、抗議者たちは軍隊とともに国営テレビ局を占拠した。午後1時、抗議者たちはチャウシェスク夫妻の逃亡を伝えるとともに、「チャウシェスクはもう終わりだ!」と宣言した。午後1時30分、ヴィクトル・スタンクレスクは軍隊に対して「国防大臣の命令に従うように」との指令を出した。この時点で、チャウシェスクを権力の座から引き摺り下ろす道筋は完了していた[124]

午後2時45分、ルーマニア共産党の幹部の1人、イオン・イリエスク(Ion Iliescu)は演説を行い、「チャウシェスクのやったことは、共産主義を汚しただけに留まらないのだ」と語りかけた。午後3時ごろ、ブクレシュティ工科大学(Universitatea Tehnică din București)の講師でのちに首相となるペトレ・ロマン(Petre Roman)がルーマニア共産党中央委員会の建物の桟敷に登場し、「Frontului Unităţii Poporului」(「人民統一戦線」)の声明を読み上げた[125]。午後4時、イオン・イリエスクとペトレ・ロマンが陸軍および治安維持の責任者と会談した。午後5時、イオン・イリエスクがルーマニア共産党中央委員会の建物の桟敷に登場し、その際に「同志諸君!」と呼びかけたことで群衆から非難され、表現の仕方を直した[114]

救国戦線評議会の議長に就任したイオン・イリエスクは、午後10時30分に宣誓書を読み上げ、チャウシェスクの権力からの追放、民主主義、政治における多元主義、経済回復のための措置の導入を宣言した[114]。イリエスクはまた、「混乱と内戦、無政府状態を避けるため、総選挙が行われるまでは、救国戦線評議会が国家権力を引き継ぐ」と発表した[123]

チャウシェスク夫妻は、ブクレシュティの北部にあるスナゴヴ(Snagov)に向かった。ここにはヴィクトル・スタンクレスクが約束した予備隊が待機していた。チャウシェスクはスナゴヴから軍管区の司令官に電話をかけていた。電話からは、チャウシェスクへの忠誠を誓う言葉が届いた[124]。夫妻はヘリコプターに乗って現地へ向かおうとしたが、スタンクレスクが領空を閉鎖した。彼はチャウシェスクの乗ったヘリコプターを撃墜するつもりでいたが、スタンクレスクの部下の一人がそれを止めるよう進言し、トゥルゴヴィシュテ(Târgoviște)の近くの野原に着陸させた[124]。着陸後、ヘリコプターの操縦士は反乱軍に亡命した。チャウシェスク夫妻は、護衛とともに、通りかかった車の運転手に対して自分たちを乗せるよう要求し、ピテシュティ(Piteşti)に向かおうとした。チャウシェスク夫妻は二台目の車を拾った。エレナは「森に隠れよう」と提案し、ニコラエは「労働者の助けを借りよう」と答えた。二人はルーマニア共産党地方委員会の建物に避難しようとしたが、入ることは許されなかった。12月22日午後3時30分、チャウシェスク夫妻は軍隊に捕らえられ、身柄を拘束された[124]

チャウシェスクの略式裁判の参加者の一人、ジェル・ヴォイカン・ヴォイコレスクルーマニア語版によれば、チャウシェスク夫妻は自分たちが「捕らえられた」とは認識しておらず、トゥルゴヴィシュテの軍隊に保護されていると信じていた、という[10]。その後2日間、夫婦は基地内にある独房と装甲兵員輸送車の中で過ごした。この間に、夫婦は簡易な健康診断を受けた[126]

12月24日、アメリカ合衆国の国務長官、ジェイムス・ベイカー(James Baker)はソ連の外務省に対し、「チャウシェスク政権の危機に関係する形での流血の事態を防ぐために、ソ連やワルシャワ条約機構がルーマニアに介入した場合、アメリカは反対しない」と通告した。ソ連は、「ルーマニア人の運命はルーマニア人自身に委ねる」と決定したという[88]


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