デビアス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/12 03:06 UTC 版)
ロンドン・シンジケート
1876年、英領ケープ植民地(現在の南アフリカ共和国)のキンバリーでは98の小シンジケートが3600ものダイヤモンド採掘地を持っていた[注釈 3]。1880年、セシル・ローズとチャールズ・ラッド(Charles Rudd)がデビアス鉱山会社を設立した。1888年3月13日、デビアス鉱山会社はロスチャイルド家およびアルフレッド・ベイト(Alfred Beit)の援助を受けてバーニー・バルナート(Barney Barnato)のキンバリー・セントラル鉱山会社と合併した[4][注釈 4]。新デビアス(De Beers Consolidated Mines Limited)はダイヤモンド生産の世界シェアを9割ほど握った[5]。1889-90年、デビアスは10社で構成されたロンドン・ダイヤモンド・シンジケートと販売契約を結び[注釈 5]、相手方へ原石を供給した。
第二次ボーア戦争終結後、プレミア(Premier)鉱山がロンドン・ダイヤモンド・シンジケートに登録された。この1902年には、デビアス・サッカークラブが、デビアスが南アフリカのケープタウン岸と西ケープ州の近くにダイナマイト工場を建設した際に設立された。その工場はローレンス川河口の真西、フォールス湾岸に置かれた。プレミアは1905年にカリナンを採掘し、翌年シンジケートを脱退した。プレミアは原石を増産してアーネスト・オッペンハイマーに売った。デビアスは1907年恐慌のさなかドイツ領南西アフリカとの競争にもさらされた。短い間、デビアスとロンドン・シンジケートはドイツ領から買い付けることに合意したが、ロンドン・シンジケートは優先してベルギーのアントウェルペン・シンジケートへ売却し、市場を開拓するようになった[5]。1912年、沖積層のダイヤモンド鉱床がベルギー領コンゴ(後のザイール、現在のコンゴ民主共和国など)で発見され、翌年から生産しデビアスと競争した。その2年後に第一次世界大戦が勃発し、デビアスは生産を中断したが、翌年に南アフリカ連邦がドイツ軍を破り、最大のライバルが退場したかに見えた。
注釈
- ^ 現在、デビアスは米国内の第一の小売拠点をニューヨークに、第二の小売拠点をロサンゼルスのビバリーヒルズ区に置いている。
- ^ 2011年11月、オッペンハイマー家は保有するデビアス株40%をアングロ・アメリカンに51億ドルで売却した[2]。
- ^ 19世紀後半に南アフリカは“鉱物革命”と呼ばれる迅速な産業化を経験し、金やダイヤ鉱山での労働者の需要が高まった。キンバリーでは、労働力の大部分はコイコイ人とコサ人の季節労働者によって担われた。彼らは夏に賃金のためにダイヤ鉱山で働く若者である。しかし彼らは不安定な労働力であること、かつ会社が労働者のダイヤモンドの横領を常に警戒していたこともあり、デビアスは労働者の囲い込みを行った。契約期間中、坑夫は現地に滞在しなければならない契約をデビアスと結ばされた。白人労働者は街に住むことを認められていたが、黒人労働者は私製通貨が支給され、宿泊・食事・会社提供の安いモロコシビール等と交換しそれで生活することが要求された。黒人労働者は週末には街への外出が許可されていたが、それも1887年には月曜の朝に二日酔いで出てくる労働者をなくすため廃止された。
- ^ 対等か吸収か不明。デビアスのキンバリーに対する支配率は3/5であったが、それまで相手方の株式を互いに買い漁っていた(守誠)。
- ^ Wernher, Beit & Company, Barnato Brothers, Mosenthal Sons & Company, A. Dunkelsbuhler, Joseph Brothers, I. Cohen & Company, Martin Lilienfeld & Company, F. F. Gervers, S. Neumann, and Feldheimer & Company.
- ^ 彼の息子ハリー・オッペンハイマーと孫ニッキー・オッペンハイマーは二人とも後に会長となる。アレックス・オッペンハイマーおよびテーラー・プラント、両方の相続人および親類も参照
- ^ カルテル関係そのものは調整により2002年現在も断続的に存在している(守)。
- ^ 1989年2月、英独占合併委員会(Monopolies and Mergers Commission)は、アングロ・アメリカンの独占に関する調査は必ずしも責務でないとした(守)。
- ^ 2017年9月末現在、ファネック家(Van Eck)のミューチュアル・ファンドがペトラの筆頭株主である[9]。この家はシェル創業者を輩出している[10]。ファンドは1955年に設立された。
- ^ 1966年、住友商事とエンゲルハルト(Engelhard, 2006年からBASF)・ハノヴィア社の合弁会社として、オリエンタルダイヤモンド工業株式会社が設立された。1971年、デビアスがエンゲルハルト・ハノヴィアの所有株式を取得した。オリエンタルダイヤモンド自体は、2002年に住友商事完全子会社となったが、事業縮小及び親会社の事業見直しによりニッセングループ入りした。
- ^ 『婚約指輪は給料の3か月分』というキャッチコピーを劇場CMで流して定着させたのもデビアスである[13]。デビアスは1971年から2001年にかけて劇場CMを上映した[13]。なおデビアスはアメリカにおいても『婚約指輪は給料の2か月分』という同様のプロモーションを行った[14]。2000年代になると中国が日本に市場規模で肉薄するようになる。
出典
- ^ デビアスが売却目指すロンドン本社ビル、ダイヤの要塞の歴史物語るブルームバーグ(2017年3月24日)2018年10月7日閲覧。
- ^ AFP (2011年11月4日). “Oppenheimers leave the diamond race with $5bn sale”. Mail and Guardian. 2011年11月5日閲覧。
- ^ Michael Hitt、R. Duane Ireland、Robert Hoskisson, Strategic Management: Concepts and Cases, Cengage Learning, 2006, p.97.
- ^ Olga Levinson, Diamonds in the desert: the story of August Stauch and his times, Tafelberg, 1983, p.6.
- ^ a b c d e f g h i j k International Directory of Company Histories, vol.28.
- ^ a b 柏木肇訳『技術の歴史』第12巻 筑摩書房 1981年 p.362.
- ^ タイムズ 2000年7月15日
- ^ International Directory of Company Histories, vol.118, "Anglo American PLC"
- ^ Yahoo Finance, Top Mutual Fund Holders, Retrieved 2017/11/29
- ^ JOHN VAN ECK, MUTUAL FUND PIONEER, DIES AT 98, Retrieved 2017/11/29
- ^ Martin Meredith (2007). Diamonds Gold and War. New York: Simon & Schuster, Limited. ISBN 0-7432-8614-6
- ^ John Hays Hammond (1974). The Autobiography of John Hays Hammond. Ayer Publishing. p. 205. ISBN 0-405-05913-2
- ^ a b “男性にプレッシャーを与えた、あの名フレーズもシネアドから!?”. 第一エージェンシー (ADfeed) (2019年8月6日). 2019年11月6日閲覧。
- ^ a b “「ダイヤモンドは永遠の輝き」をもう一度-生産者が結束”. ブルームバーグ (2015年6月9日). 2019年11月6日閲覧。
- ^ 「ダイヤモンドは永遠の輝き」は、アメリカの広告業界誌アドバタイジング・エイジによって20世紀最高のスローガンに選ばれた[14]。
- ^ 子会社であるエレメント・シックス社では産業用の合成ダイヤモンドを製造している。
- ^ CNN.co.jp : デビアス、人工ダイヤのブランドを発表 9月発売へ
- ^ ダイヤ最大手デ・ビアス 人工品参入に中国の影/技術進化、宝飾向け供給増/天然品と「市場分離」狙う『日本経済新聞』朝刊2018年8月2日(マーケット商品面)2018年10月7日閲覧。
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