チュニジアの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/25 08:34 UTC 版)
先史時代
ルイジ・ルーカ・カヴァッリ=スフォルツァは、現在のチュニジアに当たる地域には紀元前10,000年頃に西アジアから原地中海人種とされる人々が移動してきたとする説を唱えている[1]。
タドラルト・アカクス(1万2000年前)やタッシリ・ナジェールに代表されるカプサ文化(1万年前 - 4000年前)と呼ばれる石器文化を築いた人々がベルベル人の先祖と考えられており[2]、チュニジア周辺から北アフリカ全域に広がったとみられている。カプサ文化は北アフリカではen:Iberomaurusian以前に存在した[3]。
カルタゴの興亡
先史時代以降、内陸部にはベルベル人が居住するようになっていたが、沿岸部には地中海交易で活躍していたフェニキア人が、交易拠点としてこの地に移住し、紀元前814年頃にカルタゴ市(ティルスの植民市)が建設された。カルタゴ帝国は商業を拡大する中で地中海やアフリカ沿岸に探検や入植市建設を行い北アフリカやシチリア島、サルデーニャ島、コルシカ島、バレアレス諸島、イベリア半島東部に植民市を築き、勢力下に置いた。「アフリカ」は古代においては現在のチュニジアに当たる地域のみを指す言葉だったが、後にアフリカ大陸全体を指す言葉となった。
紀元前6世紀からシチリア島を巡って在地のギリシャ人植民市と対立し、三次に渡るシケリア戦争が繰り広げられた。紀元前264年からイタリア半島で勢力を伸ばしたローマ共和国との三次に渡るポエニ戦争を繰り広げた。第一次ポエニ戦争では敗戦によってコルシカとサルデーニャを失った。第二次ポエニ戦争ではハンニバル・バルカに率いられたカルタゴ軍がアルプス山脈を越えてイタリア半島に侵入し、ローマを存亡の危機に脅かしたが、ローマが態勢を立て直すとスキピオ・アフリカヌスの率いるローマ軍がアフリカに上陸し、ザマの戦いでハンニバルを破ってカルタゴは敗北した。敗北したカルタゴはアフリカ以外の全ての領土を喪失し、多額の賠償金を課せられたが、カルタゴは驚異的な速度で復興し、賠償金を完済した。カルタゴの復活を恐れたローマは第三次ポエニ戦争でカルタゴを征服し、紀元前146年にカルタゴは滅亡した。
ローマ帝国属州アフリカ
カルタゴが滅亡すると、領土は全てローマのアフリカ属州に組み込まれた。ローマ共和国の統治下でカルタゴ市は再建され、北アフリカの中心都市として栄えた。ローマ風の建築物が建てられるなどローマ化が進み、キリスト教も普及していった。
ローマ帝国の東西分裂後、チュニジアは西ローマ帝国の統治下に置かれた。5世紀になるとゲルマン系のヴァンダル人が侵入し、ヴァンダル王国が建国された。ヴァンダル王国は一時西地中海の制海権をおさえて繁栄したものの、534年に東ローマ帝国のユスティニアヌス帝によって滅ぼされ、これ以降は東ローマ帝国に組み入れられた。
7世紀からイスラーム勢力のウマイヤ朝がチュニジアにまでジハードを敢行し、アラブ人の侵入が進んだ。640年以来カルタゴはアラブ艦隊の攻撃を受けるようになり、670年にはアラブ人支配地域でカイラワーンが建設された。東ローマ帝国とベルベル人は共同でアラブ人と戦い、683年に襲撃してきたアラブ軍を撃退した。この敗退によってカイラワーンはベルベル人の支配下に置かれたが、688年にアラブ軍がカイラワーンを奪回し、その後ハッサーン・イブン・ヌマーンの遠征によって692年にカルタゴはウマイヤ朝によって攻略された。697年に東ローマ帝国がカルタゴを再攻略したが、ハッサーン率いるウマイヤ朝軍にベルベル人を率いた女王カーヒナと東ローマ帝国の連合軍は敗れ、698年にアラビア人がカルタゴを再奪取し、カーヒナは戦死した(カルタゴの戦い (698年))。こうして紀元前から続いたローマ人のアフリカ支配は終焉し、ベルベル人はアラブの支配に服することになった。
- ^ Luigi Luca Cavalli-Sforza, Paolo Menozzi, & Alberto Piazza, The History and Geography of Human Genes (Princeton University 1994) at 99.
- ^ Brent, Michael; Elizabeth Fentress (1996). The Berbers. Blackwell. pp. 10–13, 17–22, map of dolmen regions at 17 The dolmens are found both north and south of the Mediterranean Sea.
- ^ J. Desanges, "The proto-Berbers" at 236-245, 236-238, in General History of Africa, volume II. Ancient Civilizations of Africa (Paris: UNESCO 1990), Abridged Edition.
- ^ 佐藤次高:編『新版世界各国史8 西アジア史I』山川出版社、2002年3月 pp.192-193
- ^ 佐藤次高:編『新版世界各国史8 西アジア史I』山川出版社、2002年3月 p.212
- ^ 佐藤次高:編『新版世界各国史8 西アジア史I』山川出版社、2002年3月 pp.282-283
- ^ 佐藤次高:編『新版世界各国史8 西アジア史I』山川出版社、2002年3月 p.383
- ^ スタンリー・レーン・プール/前嶋信次:訳『バルバリア海賊盛衰記 イスラム対ヨーロッパ大海戦史』リブロポート、1981年12月 pp.249-250
- ^ 平野千果子『フランス植民地主義の歴史』人文書院、2002年2月 p.52
- ^ 佐藤次高:編『新版世界各国史8 西アジア史I』山川出版社、2002年3月 p.384
- ^ 宮治一雄『世界現代史17 アフリカ現代史V』山川出版社、2000年4月 p.87
- ^ “チュニジア連続暴動、600人超逮捕 軍支援部隊が出動”. AFP (2020年1月19日). 2021年1月19日閲覧。
- ^ “Tunisia president indicates plans to amend constitution”. Al Jazeera (2020年1月19日). 2021年9月13日閲覧。
- ^ “チュニジア基礎データ”. Ministry of Foreign Affairs of Japan. 外務省. 2022年10月16日閲覧。
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