ステルヴィオ・チプリアーニ
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ステルヴィオ・チプリアーニ Stelvio Cipriani | |
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ステルヴィオ・チプリアーニ(1974年) | |
基本情報 | |
生誕 | 1937年8月20日 |
出身地 | イタリア ラツィオ州ローマ県ローマ |
死没 | 2018年10月1日(81歳没) |
学歴 | サンタ・チェチーリア音楽院 |
ジャンル | 映画音楽 |
職業 | 作曲家、編曲家、指揮者、ピアニスト |
担当楽器 | ピアノ、指揮 |
活動期間 | 1966年 - 2018年 |
甘く美しいメロディを作曲することで定評があり、イタリアを中心にヨーロッパ各国の映画界で活躍した。代表作にベニスの愛 Anonimo veneziano(1970年)、ラストコンサート Dedicato a una stella(1976年)など。スティーヴ・パウダー(Steve Powder)という変名を用いる時もある。
経歴
ローマで生まれ育ち、同地の名門音楽学校サンタ・チェチーリア音楽院でピアノと音楽理論を学ぶ。音楽院を卒業後はジャズピアニストとして活躍し、アメリカに留学してデイヴ・ブルーベックにジャズ・ピアノを学ぶ。
ピアニストとして活動する傍ら、歌手のボイストレーニングコーチを務めていたチプリアーニに、俳優のトーマス・ミリアンがボイストレーニングを依頼する。この際に親しくなったミリアンの紹介を受けて、チプリアーニはミリアンが悪役で出演したマカロニ・ウェスタン映画ガン・クレイジー The Bounty Killer: La morte ti segue... ma non ha fretta(1966年)の映画音楽によって作曲家デビューを飾る[1]。
キャリアの初期はエンニオ・モリコーネから強く影響を受けた曲調のマカロニ・ウェスタンや、戦争映画の音楽で知られる。1970年には俳優のエンリコ・マリア・サレルノが監督した恋愛映画ベニスの愛(1970年)に美しい音楽を提供し、国際的な名声を得る。ベニスの愛の音楽は1971年度のナストロ・ダルジェント作曲賞を受賞し、ポール・モーリアやリチャード・クレイダーマンにもカバーされるなど世界的なヒット曲となる。また、ベニスの愛には主題歌がなくオーボエとストリングスが流麗なメロディを奏でる伝統的なスタイルの映画音楽ながら、映画公開後に各国で歌詞がつけられてイタリア語版はオルネラ・ヴァノーニ、フランス語版はフリーダ・ボッカラ、日本語版はザ・ピーナッツが歌うなど映画音楽の範疇を超えて広く親しまれた。以降のチプリアーニは初期の映画音楽に見られたモリコーネからの影響を脱却し、甘く美しいメロディを作曲するメロディメイカーとして知られることとなる。
作風
イタリア人作曲家らしく、歌心を持った美しいメロディを得意とする。チプリアーニの甘いメロディメイカーとしての個性は特にベニスの愛をはじめ、"Timanfaya (Amor prohibido)"(1972年)、ラストコンサート Dedicato a una stella(1976年)、エデンの園Il giardino dell'Eden(1980年)といった恋愛映画において発揮された。
一方でホラー映画やアクション映画の音楽でもよく知られる。イタリア製恐怖映画の帝王的存在マリオ・バーヴァ監督の晩年の3作品の音楽を手掛けたことがとくに有名で、哀愁にみちたメロディが美しい血みどろの入江 Reazione a catena (Ecologia del delitto)(1971年)、スキャットを取り入れた爽やかな美しさのテーマ曲が印象深い処刑男爵 Gli orrori del castello di Norimberga(1972年)、ジャズの要素を取り入れた迫力のあるアクション映画風スコア"Cani arrabbiati"(1974年)と、3作品ともまったく異なるアプローチでバーヴァの映像美を彩っている。
メロディメイカーとして高い人気を得ていたが、反面、多作家ゆえに楽曲の使いまわしも多かった。特に1973年に大誘拐 La polizia sta a guardare(1973年)に作曲したサスペンスフルなテーマ曲は、その後も"La polizia chiede aiuto"(1974年)やテンタクルズ Tentacoli(1977年)などに流用している。
チプリアーニはインタビューにおいて自身の作曲のスタイルを次のように語っている。
「作曲だけしてあとは他人にまかせることはしない。作曲、編曲、指揮をぜんぶ自分でちゃんとやる。ラッシュ試写を見て頭に入れ、家へ帰って場面を思い出しながらピアノを弾き、イマジネーションをひろげてゆく。作品の内容によって工夫を凝らす。スリラーにはギターを使い、マカロニ・ウェスタンには使わない。ハーモニカ、マランツァーノ(イタリア式のジューズハープ)、アップライト・ピアノの鍵に槌をつけて変わった音を出すように。映画音楽では通常32人以内の弦にピアノ、ファゴット、オーボエなどを加えて最大40人ぐらい。ぼくの作曲と演奏にはぼくの作品だとわかる特色をつける。」[2]
『ベニスの愛』と『ある愛の詩』
1970年にチプリアーニが作曲したベニスの愛の音楽が、同年にフランスの作曲家フランシス・レイが作曲したある愛の詩(1970年。同名映画のテーマ曲)に類似しているとして話題になった。
チプリアーニ側は、ベニスの愛の劇場公開がある愛の詩より半年早いことを根拠にしてレイ側に抗議した。しかし当時の映画雑誌スクリーンが報じるところによると、1971年6月にチプリアーニと弁護士がパリに渡ってフランシス・レイと会見すると、両者はあっさりと仲直りした。フランシス・レイはフランス生まれだが実は両親ともにイタリア人であり、同胞のチプリアーニと争うよりも仲良くしたいという意思からあっさりと謝罪。これに深く感動したチプリアーニはレイへの訴えを取り下げたとのことである[3]。チプリアーニに対する慰謝料代わりとしてレイが作曲した栗色のマッドレー(1970年)のサウンドトラックの著作権を譲渡することで和解した。
1974年にチプリアーニが来日した際には、映画評論家の日野康一がインタビューを行いこの件に関して質問をしている。チプリアーニによると「カムレコードの弁護士が訴えて裁判にしようとすすめてきたけれども断った。ぼくの曲はフランシス・レイよりも6ヶ月早く完成していた。映画の(ヨーロッパ)公開も早い。第一、ベニスの愛はホ長調で、ある愛の詩はト長調で書かれている(と楽譜をサラサラと書き、最初の部分を自分で歌って聞かせた)。それにイタリアの著作権法では4小節までは盗作と認めない。」その結果、同業者がお互いに傷つけあうことはやめようと問題は当事者間で解決されたと語っている[2]。
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