ジェフ・モンソン ジェフ・モンソンの概要

ジェフ・モンソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 13:49 UTC 版)

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ジェフ・モンソン
基本情報
本名 ジェフリー・ウィリアム・モンソン
(Jeffrey William Monson)
通称 ザ・スノーマン
(The Snowman)
アナーキー in the USA
極めの博士号
ハルク of UFC
国籍 アメリカ合衆国
ロシア
ルガンスク人民共和国
アブハジア[1]
生年月日 (1971-01-18) 1971年1月18日(50歳)
出身地 ミネソタ州セントポール
所属 アメリカン・トップチーム
身長 175cm
体重 107kg
リーチ 180cm
階級 ライトヘビー級
ヘビー級
バックボーン ブラジリアン柔術 (黒帯)
レスリング
ボクシング
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獲得メダル
アメリカ合衆国
男子 グラップリング
アブダビコンバット
1999 アブダビ 99kg級
2000 アブダビ 99kg級
2001 アブダビ 99kg超級
2005 ロングビーチ 99kg超級
2009 バルセロナ 99kg超級
グラップリング世界選手権
2007 アンタルヤ 125kg級
2008 ルツェルン 125kg級
2012 クラクフ 100kg超級
世界ノーギ柔術選手権
2007 カーソン 97.5kg級
2007 カーソン 無差別級

筋骨隆々とした骨格とパワーを持つ。全身に彫られたタトゥースキンヘッドが特徴のグラップラー。また、自らを共産主義者および無政府主義者だと公言し、試合後のインタビューなどでも自らの政治姿勢を語ることがある。

来歴

オレゴン州立大学イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校時代にレスリングNCAAディビジョン1で活躍。その後、ブラジリアン柔術を学んだ[2]ミネソタ大学ダルース校で心理学修士号を取得し、メンタルヘルスの専門家として働いていたが、アブダビコンバット総合格闘技で成功すると仕事を辞め格闘技に専念した。

1997年11月21日、総合格闘技デビュー。

1999年2月、アブダビコンバット99kg未満級の決勝でサウロ・ヒベイロに勝ち、優勝。

2000年3月、アブダビコンバット99kg未満級の決勝でヒカルド・アローナに負け、準優勝。

2000年9月22日、UFC初参戦となったUFC 27でティム・レイシックと対戦し、判定勝ち。

2000年12月16日、UFC 29チャック・リデルと対戦し、判定負け。

2001年4月、アブダビコンバットに出場。階級を上げた99kg以上級の決勝でマーク・ロビンソンに負け、準優勝。

2005年5月、アブダビコンバット99kg以上級の決勝でガブリエル・ゴンザーガに勝ち、1999年以来の優勝を果たした。

2006年4月15日、UFC 59マーシオ・"ペジパーノ"・クルーズと対戦し、判定勝ち。

2006年5月26日、グラップリング大会L.A.SUB-Xでマーシオ・"ペジパーノ"・クルーズと再戦し、引き分けた。

2006年11月18日、UFC 65のUFC世界ヘビー級タイトルマッチで王者ティム・シルビアに挑戦し、0-3の判定負けを喫し王座獲得に失敗した。

2007年4月8日、PRIDE初参戦となったPRIDE.34にて藤田和之と対戦、チョークスリーパーで一本勝ち。

2007年9月1日、Art of Warで行われたIFAヘビー級タイトルマッチでペドロ・ヒーゾと対戦し、打撃の向上をみせストライカーのヒーゾ相手にスタンドで戦うも、パンチ連打でTKO負けを喫し王座獲得に失敗した[3]

2007年12月9日、フィリピンで開催されたリング・オブ・ファイヤーにジョシュ・バーネット率いるチームの一員として参戦。ハキム・ゴーラムに判定勝ち。

2008年5月18日、戦極初参戦となった戦極 〜第二陣〜で10年来の友人でもあるジョシュ・バーネットと対戦し、判定負け。

2008年11月26日にイラク戦争や貧富の差に対する抗議行動としてワシントン州議会ビルにアナーキーマーク、ピースマークなどをスプレーペインティングをしたとして、2009年1月にワシントン州から逮捕状が発行された(2009年7月に器物破損罪が確定し、通勤懲役90日および21,894ドルの損害賠償が科せられた)。

2009年1月17日、交際女性への暴力および自宅を破損させたとしてノースカロライナ州で現行犯逮捕された。

2009年4月5日、DREAM初参戦となったDREAM.8セルゲイ・ハリトーノフと対戦し、ノースサウスチョーク(DREAMの公式記録は前方裸絞め)で一本勝ちを収めた。

2011年4月1日、Fight Timeで行われたISKA MMA世界ヘビー級王座決定戦でトニー・ロペスと対戦し、3-0の判定勝ちを収め王座獲得に成功した。

2011年6月18日、Strikeforce初参戦となったStrikeforce: Overeem vs. Werdumダニエル・コーミエと対戦し、0-3の判定負けを喫した。

2011年11月20日、ロシアで開催されたM-1 Globalエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦し、0-3の判定負けを喫した。

2012年11月15日、M-1 Challenge 35でエメリヤーエンコ・アレキサンダーと対戦し、ノースサウスチョークで一本勝ち。

2013年10月20日、M-1 Challenge 42で石井慧と対戦し、0-2の判定負け。

2015年2月21日、ロシアで開催されたOplot Challengeでウラジミール・ネポチャトフと対戦し、ノースサウスチョークで一本勝ち。この試合のファイトマネー全額を紛争のあったドンバスに寄付した[4]

2021年1月12日、引退を発表。

人物・エピソード




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