ジェニファー・カプリアティ ジェニファー・カプリアティの概要

ジェニファー・カプリアティ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 08:48 UTC 版)

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ジェニファー・カプリアティ
Jennifer Capriati
ジェニファー・カプリアティ
基本情報
フルネーム Jennifer Marie Capriati
国籍 アメリカ合衆国
出身地 同・ニューヨーク
生年月日 (1976-03-29) 1976年3月29日(45歳)
身長 170cm
体重 73kg
利き手
バックハンド 両手打ち
殿堂入り 2012年
ツアー経歴
デビュー年 1990年
引退年 2004年
ツアー通算 15勝
シングルス 14勝
ダブルス 1勝
生涯通算成績 496勝226敗
シングルス 430勝176敗
ダブルス 66勝50敗
生涯獲得賞金 $10,206,639
4大大会最高成績・シングルス
全豪 優勝(2001・02)
全仏 優勝(2001)
全英 ベスト4(1991・2001)
全米 ベスト4(1991・2001・03・04)
優勝回数 3(豪2・仏1)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 3回戦(2000)
全仏 3回戦(2000・01)
全英 3回戦(1991・2000)
全米 ベスト8(2001)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 1位(2001年10月15日)
ダブルス 28位(1992年3月2日)
獲得メダル
女子 テニス
オリンピック
1992 バルセロナ シングルス

来歴

1990年3月、14歳の誕生日の2週間前にプロ転向を認められ、直ちにデビュー戦の大会でいきなり決勝戦に勝ち進んだ。プロ入り3大会目にして、カプリアティは世界ランキング25位に入る。4大大会初出場となった全仏オープンでも14歳2ヶ月でいきなりベスト4進出を果たし、その年に16歳6ヶ月で大会最年少優勝を飾ったモニカ・セレシュに 2-6, 2-6 で敗れた。続くウィンブルドンでカプリアティは「第12シード」に選ばれ、「14歳3ヶ月」で4大大会女子シングルスの最年少シード選手の記録を更新した。

その後も天才少女ぶりを発揮し、1991年に15歳でウィンブルドン全米オープンの2大会連続でベスト4に進出する。ウィンブルドンでは、前年に大会史上最多優勝記録「9勝」を樹立した前年優勝者のマルチナ・ナブラチロワを準々決勝で破り、さらに評価を高めた。1992年バルセロナ五輪で、カプリアティは女子シングルス決勝で第1シードのシュテフィ・グラフを 3-6, 6-3, 6-4 で破り、16歳の若さで金メダルを獲得した。しかし、燃え尽き症候群から過ちを犯してしまい、1993年全米オープンの1回戦敗退を最後に長期間テニスから遠ざかる。1994年5月16日にマリファナ所持容疑で逮捕されたカプリアティは、一時はテニス選手としての再起を危ぶまれた。

1996年テニス界に復帰。3年後の1999年頃からテニス成績も復調し始め、全仏オープンで6年ぶりの4回戦進出を果たす。同年の全米オープンでも4回戦まで勝ち進んだカプリアティは、敗戦後の記者会見で「過去との決別」を宣言し、6年間の歳月を経て燃え尽き症候群から回復した[1]2000年全豪オープンでは準々決勝で杉山愛を破り、初のベスト4に進出する。この時期、日本人のテニスコーチである中村豊がカプリアティのトレーナーを担当していた。

2001年全豪オープン決勝でマルチナ・ヒンギスを 6-4, 6-3 で破り、少女時代に果たせなかった4大大会初優勝を実現させる。続く全仏オープンでも決勝でベルギーの18歳、キム・クライシュテルスを 1-6, 6-4, 12-10 で破り、4大大会に2連続優勝を達成する。2001年10月15日、ヒンギスを抜いて自己最高の世界ランキング1位になった。2002年全豪オープンではヒンギスにマッチ・ポイント4本を握られながらも、そこから逆転して大会2連覇を飾った。それ以後はウィリアムズ姉妹やベルギー勢などの台頭もあり、4大大会の優勝から遠ざかっている。

2003年は前年オフの目の手術などの影響で全豪オープンに初戦敗退を喫し、大会3連覇を逃す。同年の全米オープン準決勝でジュスティーヌ・エナン=アーデンに敗れた試合のように(決勝進出まであと2ポイントに迫りながらも逆転負け)、惜しい試合展開で4大大会決勝進出を逃すケースが多くなっていた。燃え尽き症候群からの回復後は、少女時代よりもはるかに強靭なテニスを繰り広げてきた。2004年全米オープン準決勝では、ロシアエレーナ・デメンチェワとの対戦で 0-6, 6-2, 6-7(5-7) で敗れ、最終第3セットのタイブレークを落とした。

この後、カプリアティは長引く肩の故障のため、2004年11月のアメリカフィラデルフィア大会の2回戦でベラ・ズボナレワロシア)に敗れた試合を最後に試合から遠ざかっている。その後、2005年から2007年までの間に3度肩の手術を受けた[2]

カプリアティは2012年に国際テニス殿堂入りを果たした[3]

WTAツアー決勝進出結果

シングルス: 31回 (14勝17敗)

大会グレード
グランドスラム (3–0)
オリンピック (1-0)
ティア I (2–9)
ティア II (4–6)
ティア III (3–2)
ティア IV & V (1–0)
結果 No. 決勝日 大会 サーフェス 対戦相手 スコア
準優勝 1. 1990年3月5日 ボカラトン ハード ガブリエラ・サバティーニ 4–6, 5–7
準優勝 2. 1990年4月2日 ヒルトン・ヘッド クレー マルチナ・ナブラチロワ 2–6, 4–6
優勝 1. 1990年10月22日 プエルトリコ ハード ジーナ・ガリソン 5–7, 6–4, 6–2
優勝 2. 1991年7月29日 サンディエゴ ハード モニカ・セレシュ 4–6, 6–1, 7–6(2)
優勝 3. 1991年8月5日 トロント ハード カテリナ・マレーバ 6–2, 6–3
準優勝 3. 1991年11月11日 フィラデルフィア カーペット (室内) モニカ・セレシュ 5–7, 1–6
優勝 4. 1992年7月27日 バルセロナ五輪 クレー シュテフィ・グラフ 3–6, 6–3, 6–4
優勝 5. 1992年8月24日 サンディエゴ ハード コンチタ・マルティネス 6–3, 6–2
優勝 6. 1993年1月11日 シドニー ハード アンケ・フーバー 6–1, 6–4
準優勝 4. 1993年8月16日 トロント ハード シュテフィ・グラフ 1–6, 6–0, 3–6
準優勝 5. 1996年11月3日 シカゴ カーペット (室内) ヤナ・ノボトナ 4–6, 6–3, 1–6
準優勝 6. 1997年1月6日 シドニー ハード マルチナ・ヒンギス 1–6, 7–5, 1–6
優勝 7. 1999年5月17日 ストラスブール クレー エレーナ・リホフツェワ 6–1, 6–3
優勝 8. 1999年11月7日 ケベックシティ ハード (室内) チャンダ・ルビン 4–6, 6–1, 6–2
優勝 9. 2000年9月25日 ルクセンブルク カーペット (室内) マグダレナ・マレーバ 4–6, 6–1, 6–4
準優勝 7. 2000年11月5日 ケベックシティ ハード (室内) チャンダ・ルビン 4–6, 2–6
優勝 10. 2001年1月27日 全豪オープン ハード マルチナ・ヒンギス 6–4, 6–3
準優勝 8. 2001年2月19日 オクラホマシティ ハード (室内) モニカ・セレシュ 3–6, 7–5, 2–6
準優勝 9. 2001年3月21日 マイアミ ハード ビーナス・ウィリアムズ 6–4, 1–6, 6–7(4)
優勝 11. 2001年4月16日 チャールストン クレー マルチナ・ヒンギス 6–0, 4–6, 6–4
準優勝 10. 2001年5月7日 ベルリン クレー アメリ・モレスモ 4–6, 6–2, 3–6
優勝 12. 2001年5月28日 全仏オープン クレー キム・クライシュテルス 1–6, 6–4, 12–10
準優勝 11. 2001年8月13日 トロント ハード セリーナ・ウィリアムズ 1–6, 7–6(7), 3–6
優勝 13. 2002年1月26日 全豪オープン ハード マルチナ・ヒンギス 4–6, 7–6(6), 6–2
準優勝 12. 2002年2月25日 スコッツデール ハード セリーナ・ウィリアムズ 2–6, 6–4, 4–6
準優勝 13. 2002年3月20日 マイアミ ハード セリーナ・ウィリアムズ 5–7, 6–7(4)
準優勝 14. 2002年8月12日 モントリオール ハード アメリ・モレスモ 4–6, 1–6
準優勝 15. 2003年3月19日 マイアミ ハード セリーナ・ウィリアムズ 6–4, 4–6, 1–6
準優勝 16. 2003年7月21日 スタンフォード ハード キム・クライシュテルス 6–4, 4–6, 2–6
優勝 14. 2003年8月18日 ニューヘイブン ハード リンゼイ・ダベンポート 6–2, 4–0, 途中棄権
準優勝 17. 2004年5月10日 ローマ クレー アメリ・モレスモ 6–3, 3–6, 6–7(6)

ダブルス: 2回 (1勝1敗)

結果 No. 決勝日 大会 サーフェス パートナー 対戦相手 スコア
優勝 1. 1991年5月12日 ローマ クレー モニカ・セレシュ ニコル・ブラドケ
エルナ・ライナッハ
7–5, 6–2
準優勝 1. 2003年6月16日 イーストボーン マギ・セルナ リンゼイ・ダベンポート
リサ・レイモンド
3–6, 2–6

  1. ^ Capriati breaks down following loss to Seles”. Sports Illustrated (1999年9月6日). 2010年2月10日閲覧。
  2. ^ バド・コリンズ著の『テニス百科事典』2008年最新版・648ページの情報による。(文献原書名:“History of Tennis: An Authoritative Encyclopedia and Record Book” New Chapter Press, Washington D.C. (2008 Ed.) ISBN 978-0942257410
  3. ^ “カプリアティがテニス殿堂入り 元世界ランキング1位”. 47NEWS. (2012年4月14日). http://www.47news.jp/CN/201204/CN2012041401001556.html 


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