ガリシア王国 概要

ガリシア王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/23 07:38 UTC 版)

概要

王国は2つの時期に分かれる。第1期には、ローマ帝国の敵であったスエビ族によって支配された君主国だった。彼らの王国はローマ属州ガラエキア(ヒスパニア北部の総称)、そしてルシタニアの大部分と一致した。この王国は、西ゴート王国によって併合された。のちに観念的な西ゴートの後継国家、アストゥリアス王国が910年に成立すると、ガリシアは再び独立した国家の地位を再獲得した。この独立はわずか2世紀ほどで終わりを迎える。1126年、レオン王及びガリシア王アルフォンソ7世カスティーリャ王位を継承、そして1128年にはガリシアの南部にあたるポルトガル地方が、ポルトガル王国として独立した。カスティーリャ王位とレオン王位が1157年に分割されると、ガリシアはレオン王国に含まれた。その後、カスティーリャとレオンは再統合した。しかし、ガリシア王国は1833年まで公式に存在し続けた。

スエビ王国

ガラエキアのスエビ王国。ガリシア、ルシタニアにまたがる

ガラエキアのスエビ王国英語版スエビ王国)は410年から584年まで続いた。この王国は当時最も堅剛な政権を維持しているように見られていた。最初、ガラエキアは2つの王国に分割された。ヴァンダル族の支族が治めるハスディンギ王国、そしてスエビ王国である。のち、ヴァンダル王のグンデリックと、スエビ王ヘルメリックの間で戦が起こり、ハスディンギ王国はスエビに滅ぼされた。スエビ族はローマ人から支援を受け、ヴァンダル族はバエティカにある支族シリンギ王国へ逃げた。この時代に書かれた文献であるイダティウス年代記を翻訳したホセ・アントニオ・ロペス・シルバのような歴史家らは、ガリシア文化の本質的な性質は、スエビ文化と、イベロ=ローマ文化が混ぜ合わされて成立したということを見いだした。[1].

ゲルマン人侵入者のうち、ガラエキアにいたスエビ族侵入者の人数は概算で30,000人を下回った(ヴァンダル族、アラン族の兵士は50,000人から80,000人が定着せずに、北アフリカへ出て行った)。現在の北部ポルトガルとガリシアの主な定住地は、ブラガ(ラテン語名:ブラカラ・アウグスタ、Bracara Augusta)、ポルトルーゴ(ルクス・アウグスタ、Lucus Augusta)、そしてアストルガ(アストゥリカ・アウグスタ、Asturica Augusta)であった。リマ川の渓谷は、ゲルマン人移住者の最大の集約地であったと考えられた。現在のブラガである、当時のブラカラ・アウグスタは、スエビの首都となった。ブラカラ・アウグスタは以前ガラエキアの首都であった。スエビ人が治めたガラエキアは、現在のガリシアより大きかった。ドウロ川へ向け南に伸び、東はアビラへ伸びた。最盛期には、メリダセビーリャといった都市まで伸びた。

438年、スエビのガリシア王ヘルメリックはヒスパニア系ローマ人出身のガライコスと和平を批准し、戦いをあきらめ、実子レキラに王位を譲り退位した。448年、レキラが死に、残された国土は彼の子レキアルによって拡大した。西ゴートからアリウス派の宣教師が布教して回っていたが、彼はカトリック信仰を異教徒のスエビ族とガライコ人に課し、自身は447年にカトリックに改宗した。456年、レキアルが死に、スエビ族の栄光が揺らぎ始めた。王位を請求する多様な候補者が現れ、2派に分かれた。ミニウス川を印にして分けられた境界が知られた。これはおそらく2つの部族カンディ族マルコマンニ族の重要さのためだった。彼らはイベリア半島のスエビ族国家を構成するゲルマン人だった。スエビ族は他のゲルマン支族ブリと共に、テラス・デ・ボウロ(ブリ族の土地の意味。現在ポルトガル)として知られる土地へ移住した。

416年にイベリア半島へ到達した西ゴート族と、スエビ族はたびたび衝突した。西ゴート族は西ローマ帝国皇帝によってアキテーヌから送り込まれ、ヴァンダル族とアラン族と戦った。西ゴート族はイベリアの大半を手中に収めたが、スエビ族は584年まで自身の独立を維持した。西ゴート王レオヴィギルドは王位継承に関する対立を口実にし、スエビ王国を攻撃、ついに敗退させた。スエビ最後の王アンデカは585年に降伏するまでに一年あまり持ちこたえた。彼の降伏で、スエビ族の治めるガリシア王国は西ゴート王国へ吸収された。それにもかかわらずガリシア王国は、紙切れでの上で公式に1833年まで存在していた。585年に西ゴートがスエビ王国を征服した後だけ、聖サラゴサのブラウリオ(590年 - 651年)はガリシアをこう表現した。『無教養の国にある西の果て、ここでは無の音が聞こえたが強風の音であった』。西ゴート語は素早く地元で使われているラテン語を取り入れたため、わずかにスエビ語の痕跡が見られる。

ガラエキアのスエビ王国(トゥールのグレゴリウスによればガリキア王国で知られた)は、のちの中世のガリシア王国と混同すべきでない。中世のガリシア王国は910年から1230年まで独立した国家として存在し、1833年まで公式に消滅しなかった。1833年、王国は4つの無関係な州に分割された。王のフンタ(Juntas del Reino、行政を担当する自治政府)は消滅した。スエビの史学史と、ガリシア全般の史学史において、スペイン文化での長い空白があった。ドイツ人学者で、ガリシアにおける初めてつながったスエビの歴史を書き残した者がいる。作家・歴史家としてシオアン・ベルナルデス・ビラルはこのことを強調している[2]

西ゴート王国の従属王国

スエビ王国 (regnum Suevorum) が、西ゴート王エギカ (en:Egica) によって、彼の子で共同統治者のウィティザ (en:Wittiza) の従属王国として再度建国された。『アルフォンソ3世年代記』は正確さは疑わしいが欠くことはできない書物で、この出来事を記録した唯一にして第一の文献である。常にナンセンスだとして葬り去られてきたものの、後期西ゴート時代を研究する学者から支持を受けている。

701年、ギリシャからスペインへ西進したペストの発生は、西ゴートの首都トレドを打ちのめし、エルギカやウィティザを含む王族らが首都を逃れなければならないほど過酷なものだった。これは、ウィティザを、スエビ族の王国を治めようとトゥイ(彼が首都を置いていたと記録されている)へ送るための口実を与えたものだと推測されてきた[1]。ウィティザがユダヤ人の圧制を救ったと記録された時期は、可能性として13世紀の年代史作家トゥイのルカスが挙げていた-ウィティザの父エルギカ時代以降のトレドで、ウィティザの治世時代に起きたとする事実としては知られていない—実際は、ルカスの地元であるトゥイでのウィティザの治世については、口頭による伝承がウィティザのガリシア統治の出来事を今に伝え続けてきたのだと推測されている[2]


  1. ^ Roger Collins (2004), Visigothic Spain, 409–711. (Oxford: Blackwell Publishing.), 110. ISBN 0 631 18185 7.
  2. ^ Bernard S. Bachrach (1973), "A Reassessment of Visigothic Jewish Policy, 589-711." The American Historical Review, 78:1 (Feb.), pp 31–32. Lucas' account has a large number of both detractors (Graetz, Katz, and Dahn) and supporters (Scherer, Ziegler, and Altamira) and even if true it is possible that Lucas' story is based on the minutes of XVIII Toledo, which still survived in his time.






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