イースター蜂起 蜂起

イースター蜂起

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/13 07:23 UTC 版)

蜂起

復活祭 月曜日

蜂起の際に中央郵便局(GPO)の屋根に掲げられた旗
イースター蜂起の中心となった中央郵便局(GPO)
共和国樹立宣言
『アイルランド共和国の誕生』(ウォルター・パジェット英語版画)イースター蜂起を描いた絵画として知られている。

義勇軍のダブリン師団は4個大隊によって編成されていた。中止命令によって、当初の計画よりもかなり少ない人数になってしまっていた(計画ではダブリン市内で5000人だったが1000人しか集まらなかった[27])。

ネッド・デーリー指揮の第一大隊(約250人)はブラックホール通に集結し、フォー・コーツ(アイルランド最高法廷)と北西地区を占領、ロイヤル兵営とマールバラ兵営よりの西からの攻撃に備えた。ショーン・ヒューストン大尉率いる12名のD中隊はフォー・コーツの対岸に位置する浮浪者収容所を占拠した。トマス・マクドナーが率いる第二大隊(200名)はセント・スティーブンス・グリーン(ダブリン市内の公園)に集まり、ジェイコブ・ビスケット工場、ビショップ通そして市庁舎の南を占拠する命令を受けた。大隊のうち少人数が北東のフェアビューに集まり、その後に中央郵便局(GPO)へ向かうよう命ぜられた[28]。南東司令官のエイモン・デ・ヴァレラは第三大隊(130名)を率いてボーランド製パン所とその周辺の建物を占拠し、ベーカーズブッシュ兵営と大通そしてキングストン(現在のダン・レアリー)港からの線路を射界に収めた。エーモン・キャントの第四大隊(約100名)はドルフィンズ・バーンのエメラルド・スクウェアに集結し、南西地区の南ダブリン貧救院を占拠し、カラッハ駐屯地からの攻撃に備えた[29]ジェームズ・コノリーが指揮する義勇軍と市民軍の合同部隊約400人はリバティ・ホールに集結した。彼らのうちマイケル・マリンが率いる市民軍の100名の男女はセント・スティーブンス・グリーンを占拠、ショーン・コノリー大尉が率いる市民軍の少人数の分遣隊はダブリン城に隣接する市庁舎周辺の建物を奪取するよう命ぜられ、これには新聞社デイリー・エクスプレスの事務所も含まれていた[30]。残りの部隊は中央郵便局を占拠する。これが司令部大隊となり、コノリーとともにトム・クラーク、ショーン・マクディアマダ、ジョゼフ・プランケットそして臨時大統領・最高司令官のパトリック・ピアースの4人の軍事評議会のメンバーがここに集まった[31]。実戦の指揮は軍務経験のあるコノリーが執る[32]

正午に少人数の義勇軍とフェニアン(IRBのメンバー)がフェニックス・パークの軍需品倉庫を襲撃して衛兵を武装解除し、武器を奪い建物を爆破して蜂起開始の合図としようとした。彼らは爆薬を設置できたが武器を奪うことはできなかった。爆発は市内全体に鳴り響くほど大きなものにはならなかった[33]。同時に市内中の義勇軍と市民軍は指定された場所の占拠と確保に動いた。

ショーン・コノリーの部隊はダブリン城を襲撃して歩哨の警官を射殺し警衛所の兵士を銃撃したが、城内までは侵入しなかった。情報将校のアイヴァー・プライス少佐、A・H・ノルウェー郵便局長ともにオフィスにいたマシュー・ネイサン次官は銃声を聞いて城門を閉めさせた[34]。反乱軍はダブリン市庁舎に隣接する建物を占拠した。

コンスタンツ・マルキエビッチ
マリンとマルキエビッチのもとで戦った女性スナイパー、マーガレット・スキニダー。偵察などのために男装していた。

市民軍のコンスタンツ・マルキエビッチ伯爵夫人(後に英国下院初の女性議員・独立後のアイルランド労働大臣)と合流したマリンの分遣隊はセント・スティーブンス・グリーンを占拠して塹壕を掘り、車両を奪ってバリケードをつくった。彼らはアイルランド王立外科医学院を含む幾つかの建物を占拠したが、公園を見渡す高い建物のシェルボーン・ホテルは占拠しなかった[35]

フォー・コーツにバリケードを築いたデーリーの部隊は最初の戦闘を起こした。第6予備騎兵連隊の第5、第12槍騎部隊が波止場の北で弾薬段列を護衛していたとき反乱軍からの銃撃を受けた。突破できなかったために彼らは近くの建物へ逃げ込んだ[36]

コノリーに率いられた司令部大隊はすぐ近くのオコンネル通へ進軍した。彼らは中央郵便局へ突撃し、客と局員を追い払い、数人の英兵を捕らえた。中央郵便局の屋根の旗竿に二つの旗が掲げられた。一つは三色旗で右手のヘンリー通に、もう一つの「アイルランド共和国」と書かれた緑の旗は左手のプリンセス通に掲げられた。暫く後に、ピアースが中央郵便局の外へ出て共和国樹立宣言を読み上げた[37]

アイルランド駐留英軍司令官のロヴィック・フレンド将軍は休暇中でイングランドにいた。蜂起が始まったとき、ダブリン駐留軍のケナード大佐も不在だった。副官のH・V・コーエン大佐はマールバラ兵営に電話をし、サックビル通(オコンネル通)へ分遣隊を派遣して中央郵便局の状況を偵察するよう求めた。その後、彼はポートベロ、リッチモンド、ロイヤル兵営へ電話をし、ダブリン城を救援するよう命じた。最後に彼はカラッハ駐屯地へ連絡をして、ダブリンへの増援を派遣するよう求めた[38]。マールバラ兵営から派遣された第6予備騎兵連隊の兵士はオコンネル通を進んだ。部隊がネルソン記念碑を通過したとき、反乱軍が射撃を開始し、3名の騎兵と2頭の馬を射殺し、4名に重傷を負わせた。騎兵隊は兵営へ撤退した[39]。この戦闘はしばしば不正確に「槍騎兵の突撃」と呼ばれる[40]

火曜日から土曜日

ダブリン市内における反乱軍と英軍の配置場所

英軍はまずダブリン城との連絡線の確保と反乱軍司令部(彼らはリバティ・ホールと考えていた)の孤立に努めた。英軍司令官W・H・M.・ロウ准将は反乱軍の兵力を把握しておらず、また4月25日水曜日にカラッハ駐屯地から市内に到着したときには1269名の兵しかいなかったため、ゆっくりと作戦を進めた。

市庁舎は火曜日の朝に奪回され、ショーン・コノリーが戦死した。マイケル・マリン率いる市民軍のセント・スティーブンス・グリーンの陣地は英軍が公園を見下ろすシェルボーン・ホテルと周囲の建物に狙撃兵機関銃を配置したため持ちこたえられなくなった。そのため、マリンはアイルランド王立外科医学院へ後退した。

英軍はアスローンから呼び寄せ市街北方のピッツスブローとトリニティ・カレッジに配置した砲兵とキングストン港からリフィー川を遡上させた砲艦ヘルガ英語版から砲撃を加えた。

蜂起の騒ぎの最中、スラム街の貧民たちによる中央郵便局周辺の商店への略奪が発生し、ピアースたちを困惑させている[41][42]

火曜日の夕方に総督ウィンボーン卿は市内に戒厳令を発令した。4月26日水曜日、トリニティ・カレッジの砲兵と砲艦ヘルガがリバティ・ホールとオコンネル通の反乱軍陣地に砲撃を加えた。


増援部隊がイングランドからダブリンへ送られ、26日朝にキングストン港に上陸した。増援部隊はダブリン市内へ進軍し、大運河周辺で反乱軍陣地と激しく交戦した。シャーウッド・フォレスター連隊はマウント通の運河を渡ろうとした時に十字砲火にさらされ、17人の反乱軍が英軍の前進を阻止している。運河西方の貧救院(現在のセント・ジェームズ病院)の反乱軍陣地もダブリン城へ向かう英軍に多数の死傷者を与えた。反乱軍将校のカハル・ブルハ(後の国防大臣でマイケル・コリンズの政敵)はこの戦闘で活躍したが自身も重傷を負った。

数日間の砲撃を受けた後に司令部の守備隊は中央郵便局からの撤退を余儀なくされた。4月28日金曜日に彼らは砲弾が降り注ぐ中、壁に穴をあけて隣接する建物に脱出し、ムーア通16番地の魚屋に新たな陣地を構築した。4月29日土曜日、指導者たちは更なる市民の犠牲なしに脱出することは不可能であると悟り、ピアースは全ての中隊に降伏を命じ、ロウ英軍司令官に無条件降伏した。

ダブリン市民のこれ以上の虐殺を防ぐため、そして同志たちの命を救うためここに降伏する。そして、絶望的に兵力で圧倒されたため司令部にいる暫定自治政府のメンバーは無条件降伏を受け入れる。市内と地方の各指揮官は兵たちに武器を置くよう命じよ。[43]

ダブリン以外での蜂起

ダブリン以外の幾つかの場所でもアイルランド義勇軍の部隊が集結したが、オーエン・マクニールの中止命令のために彼らのほとんどが戦うことなく帰宅してしまった。加えてドイツの武器を積んだオウド号が摘発されたために地方の義勇軍の装備は極めて貧弱なものだった。

ミース県のアッシュボーンではトマス・アッシュと副官のリチャード・マルカヒー率いる北ダブリン県義勇軍(フィンガル義勇軍)が英軍の兵舎を襲撃した。スレインからの増援が到着し、5時間の戦闘の後、義勇軍は90名の捕虜を得た。英兵の戦死者は8から10名で、義勇軍は2名が戦死している。この戦闘はアイルランド独立戦争1919年-1920年)におけるアイルランド共和国軍ゲリラ戦術の先駆となった。東部の他の地域ではショーン・メイサンティのラウス県義勇軍が警官と看守を殺害している。ウェックスフォード県では火曜日から金曜日まで義勇軍がエニスコーティを占拠したが、1798年のアイルランド反乱での有名な戦いが行われたビネガーの丘で英軍に象徴的な降伏をした。

西部ではリアム・メローが600から700人の義勇軍を率いゴールウェイ県のオーランモアとクレアリンブリッジの警察署を襲撃したが不成功に終わった。カーンモアでも小競り合いがあり英兵2名が犠牲となった。しかしながら彼の兵の装備は貧弱であり、25丁のライフルと300丁の散弾銃しかなく、他はパイク(槍)を装備していただけだった。週の終わりごろには、メローの部下たちは食料が欠乏し、そして英軍の大規模な増援が西部へ送られたと知らされた。更に英海軍の巡洋艦グロスターがゴールウェィ湾に到着し、反乱軍が拠点を置いているアトンライに砲撃を加えた。4月29日、反乱軍は状況は絶望的であると判断し、アトンライから逃げ散った。英軍の増援が到着した時には反乱は既に消滅してしまっていた。義勇軍の多くはその後逮捕されたが、メローを含む数人が逃亡に成功している。

北部ではティロン県では幾つかの中隊が招集され、132人がベルファストのフォールズ通に集まっている。

南部では復活祭月曜日にトマス・マックカーテンが率いる1000人の義勇軍が コークに集結したが、ダブリンの義勇軍指導者たちから矛盾する命令をいくつも受けたため解散している。

犠牲者

英軍は兵士が戦死116名、負傷368名、行方不明9名、警察官が死者16名、負傷29名と報告している。アイルランド側の犠牲者は死者318名、負傷2,217名であった。義勇軍と市民軍は64名が戦死したと記録しているが、アイルランド側の犠牲者は反乱軍と市民が区別されていない。[44]


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