アーノルド・バックス 音楽

アーノルド・バックス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/29 15:39 UTC 版)

音楽

バックスの音楽が単純にラプソディックになったり不定形になることは決してない(中略)しかし、聴衆の注意が彷徨うことを要求する場面においては、悪漢的構成への愛と明瞭な外形の欠如が満ちてくる傾向があり、こうした欠陥があることが、本質的に高貴で、人間味があり、ある種の鬱屈した壮大さを可能性として秘める音楽が広く無関心に甘んじている原因といえる。
『レコード・ガイド』、1955年[63]

バックスの作曲家仲間であったアーサー・ベンジャミンは、バックスが「音楽の泉」、その「自然で尽きせぬ湧き出し」は同時代人の中でも特別であり、シューベルトドヴォルザークに比肩し得ると記した[64]。エヴァンスはバックスの音楽が頑健さと物悲しさを逆説的に結びつけるものだと唱えており[42]、この見解はハーベイジなどの後の評論家からも支持されている[8]。初期の音楽がしばしば器楽としての困難さを伴ったり、管弦楽や和声が複雑だったりする一方、1913年頃以降からは簡素を増し、切り詰めたスタイルへと向かっていく[42]。作曲家で音楽学者のアンソニー・ペインは、バックスの最良の作品は1910年から1925年の期間に生まれていると考える。彼が例に挙げるのは『ファンドの園』、『ティンタジェル』、『十一月の森』、ピアノソナタ第2番、ヴィオラソナタ、最初の2作の交響曲である[65]。1930年代までにはバックスの音楽が斬新、難解であるとみられることはなくなっており、1940年代に近づくとそれまでのような注目は集まらなくなっていった[15]

バックスの音楽に長く携わってきた指揮者のヴァーノン・ハンドリーは、バックスの音楽はリヒャルト・シュトラウスワーグナーに加えてラフマニノフシベリウスからも影響を受けていると述べる。「彼はジャズの他、今の我々よりもより多くのヨーロッパの音楽情勢における作曲家を知っていた。それがひとりの人物の精神と個性に入り込み、また音楽家としての技術の一部となっていくのである[66]。」

評論家のネヴィル・カーダスは、バックスの音楽について次のように記している。

逆説的なのは彼の方法論、語法や調性感が非個人的なものだということだ。すなわち、エルガーやグスタフ・マーラーに見出されるように個人的な心情や魂の状態を直接的に開示することは少しもない。しかし、バックスの人相もしくは心理は見間違えることなく存在する。交響曲群の暗い茂みには、いつも愛嬌があり親しみやすい男と自然の温かい光の筋が差し込んでいるのを感じられるのでないだろうか[60]

ヨーク・ボウエンは、バックスの管弦楽曲が頻繁に例外的に大きな編成を要求することが残念であると述べている。「4本の木管、6つのホルン、3つもしくは4つのトランペット、追加の打楽器、場合によってはオルガンといった豪華さが総譜で求められていると、演奏するにあたって殊の外難儀させられるのは疑うべくもない[67]。」作曲家のエリック・コーツは、バックスの音楽は管弦楽の奏者には大層な魅力を放つと述べる。「どの楽器に対して書くにしても、彼はあたかも自分でその楽器を演奏するかのようで、それほど巧みにその楽器を用いて作曲するのである[68][注 11]。」

交響曲

1907年、ドレスデンで着手した作品をバックスは後年次のように評することになる。「演奏に1時間を要するはずだった巨大な交響曲、もしそのような馬鹿げた夢が実現したのなら[70]。」彼は「幸いにも、そうなることはなかったが!」と付け加えもしたが、全曲のピアノ譜を遺していた。2012年-2013年にかけてマーティン・イェーツがこれにオーケストレーションを施し、ダットン・ヴォカリオンレーベルに録音を行った。演奏時間は77分である。全4楽章となっており、彼の完成された交響曲群に比べて伝統的な形式を取り、使われている材料にはロシアからの強い影響を感じさせる[71]

バックスは1921年から1939年の間に7曲の交響曲を完成させた。この7曲の研究において、デイヴィッド・コックスは1967年にこれらの作品が「バックスはケルトの靄と『雰囲気』だけで出来ていると考える者から、しばしば無構造であるとして却下されてきた。実のところ、これらには相当な強靭さと渋味があり、形式の上では主題要素が一貫性と目的をもって提示されている[72]。」ハーベイジの見立てでは、曲集は3つのグループに分けることができる。最初の3曲と最後の3曲の2群、そして第4番は「これらの内相的傾向の強い作品群の間に位置する外向性の間奏曲」であるという[8]。ハンドリーも最初の3作品をひとまとめにできるという考えに賛同しており、フォアマンによればこの3曲にはケルトの影響があるとともに、イースター蜂起とその余波に対するバックスの感情が認められるとしている[1]。第4番は前後に連なる作品群に比べて楽天的な楽曲であると看做されることが一般的である。ハンドリーは第4番を「祝祭的」であると評するが、そこでの発想が暗い雰囲気を増した第5番第6番へと発展していくのだと述べる[73]。フォアマンにとり第5番は「最大の『力作』」であり、第6番は「壮大な終楽章」により際立っているという。評論家のピーター・J・パイリーはその楽章が「地球をその根源まで引き裂いていく」と述べる[74]。『ニューグローヴ世界音楽大事典』が示す見解によると、第7番は哀歌調の音色を持ち、その簡素さはバックスの往年の音楽にあるとりとめのなさや複雑さから遠く離れたところにあるという[8][43]

協奏的作品

バックスが作曲したはじめての独奏楽器と管弦楽のための楽曲はハリエット・コーエンのために書かれた『交響的変奏曲』変ホ長調で、演奏には50分を要する。『タイムズ』紙はこの作品が「陸軍であれば軍法会議にかけられるか、ヴィクトリア十字章を受章するかといった類の功績」と考えられるという。「我々はその軍法会議に賛意を示し、この功績の一翼を担ったハリエット・コーエン氏にはヴィクトリア十字章を授与したく思う[75]。」

チェロ協奏曲(1932年)で、バックスは初めてフルスケールの伝統的協奏曲に挑戦した。この作品には彼が日頃用いているよりも小規模な管弦楽が使われており、トロンボーンとチューバを欠き、打楽器はティンパニのみとなっている。フォアマンは総譜に現れる繊細さを多く指摘しつつも、この楽曲が作曲者の円熟作の中で高く位置付けられたことがないと述べる[50]。ヴァイオリン協奏曲(1937年-1938年)は最後の交響曲と同じく、バックスの過去の音楽に比べてくつろいだ様子が増している。カーダスが「類稀なる素晴らしさ」として選び出す1曲でありながらも[60]、ハイフェッツは技巧が足りていないと感じたのかもしれない[76]。バックスはこの作品がヨアヒム・ラフのロマン派の系譜であると述べていた[77]

知名度の低い協奏的作品としては、バックスの多くの作品と比べると新古典主義寄りのスタイルで書かれた、ハープと弦楽合奏のための『ガブリエル・フォーレの名による変奏曲』(1949年)などがある[78]。バックスの最後期の協奏的作品には、国王の音楽師範の立場でエリザベス王女の25歳の誕生日に寄せて書かれた、ピアノと管弦楽のための短い作品(1947年)もある[15]

その他の管弦楽作品

バックスとアーネスト・ジョン・モーランアロイス・フレイシュマンの妻ティリー、1937年。

バックスの交響詩は多様な様式で書かれており、人気にははっきりとした差が出ている。印象主義的な交響詩である『妖精の丘に』について、『ニューグローヴ世界音楽大事典』は「簡潔で魅力的な楽曲」と評している。『春の火』(1913年)はそこそこの成功を収めはしたが、フォアマンが難解な作品として例に挙げる楽曲であった。また、バックスの生前には演奏の機会を得られなかった作品でもある[15]。第一次世界大戦中に書かれた3作の交響詩のうちの2曲『ファンドの園』(1913年-1916年)と『十一月の森』(1917年)は現代のレパートリーでは脇へ追いやられたままで、3曲目の『ティンタジェル』(1917年-1919年)が彼の死後10年が経過した頃には、一般に知られる唯一のバックス作品となっていた[15]。『グローヴ』はこれら3曲は全て音楽による自然の喚起を特徴とするとし、主観的で個人的な感応の表現はわずかであると述べる。最も長きにわたり無視に甘んじてきた管弦楽作品はイースター蜂起に加わり銃弾に倒れたパトリック・ピアースを哀悼して書かれた『イン・メモリアム』(1917年)である。この作品は1998年まで演奏されなかった。バックスはその主要旋律を映画『オリヴァ・ツイスト』(1948年)のための音楽へと転用している[79]。印象主義的な交響詩の傑作には、アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンの詩に基づく自然詩『ニンフォレプト』もある。さすらい人が古いケルトの森で樹の精に釘付けとなる。この楽曲もバックスの生前には演奏されなかった[80]

『オリヴァ・ツイスト』はバックスの映画音楽では2作目にあたる。1作目は戦中の短いプロパガンダ映画『Malta, G. C』であった。後者が発表された後に4曲から成る組曲が編まれた[81]。『ペンギン・ガイド』はそのうちの行進曲について「最良のエルガーの伝統の系譜である、真に『気品ある』主題を持ち特筆すべき」であると評する[82]。3作目で最後となる映画音楽は10分の短編映画『歴史への旅』(1952年)のためのものである[83]

その他の管弦楽曲には、『グローヴ』が軽量級の作品とする『序曲、エレジーとロンド』(1927年)がある。『ピカレスク・コメディのための序曲』(1930年)は、一時はバックスの作品中で最大の人気を誇った[50]。作曲者自身はこの作品を「シュトラウス風のパスティーシュ」と評し、『タイムズ』紙は「陽気で図々しく、その下品さへ向かう傾向は力づくで本能的に上品な作曲者をして羽目を外させてしまう」とする[84]。カーダスは、この非常に魅力的な序曲に見合う喜劇として推定されるのは「ホーフマンスタールショーの合作」でなければならないだろうと考え、次のように付け足す。「イングランドの音楽がこれほど自由でここまで大胆、かくも陽気で愛嬌があることはあまりない[85]。」

声楽曲

バックスが一度もイェイツの詩に音楽を書いていないことに驚いたと、評論家のピーター・レイサムは述べている。バックスはこれに応じ「なんだって、私が?しない方がいいだろうね!」加えて、レイサムは詩の価値に対するバックスの感受性によって彼は「たとえ最良の音楽であったとしても、それが詩に振るう暴力のことを苦しいほどに認識していた」と付け加えている。やがて、この感情ゆえに彼は歌曲の作曲を完全にやめてしまうことになる[77]

トーマス・ハーディ、1910年-1915年頃。

作曲家としてのキャリアを開始した際には、ピアノ音楽と共に歌曲がバックスの作品の中核を形成した。初期の作品を中心とする歌曲の中には、ピアノパートの技巧性が目立つ作品もあり、そうしたものは歌を覆い隠してしまいがちである[86]。『グローヴ』は『The Fairies』(1905年)の技巧的な伴奏を、バックスの歌曲でも指折りの人気を誇る『The White Peace』(1907年)の簡素さの増した伴奏と比較している。音楽アナリストのトレヴァー・ホールドは、『Glamour』(1920年)においてはピアノは「狂暴化している」と書いている[87]。バックスが曲を付けた詞の作者には弟のクリフォード、バーンズチョーサーハーディハウスマンジョイスシングテニスンらがいる[15]。彼は『Who's Who』における自身の記事において、「フィオナ・マクラウド」(詩人ウィリアム・シャープの筆名)のテクストによる『A Celtic Song-Cycle』(1904年)を選んで言及を行っている[88]。戦後の歌曲の中では、ホールドは『In the Morning』(1926年)がハウスマン作品への曲として最上級であると考えており、「(この曲は)バックスがシュロップシャーの風景をもっと探索してくれていれば、と思いにさせる」と述べる[89]。ホールドはこの作品と『Across the Door』(1921年)、『Rann of Exile』(1922年)、『Watching the Needleboats』(1932年)を「真に現代的な、20世紀歌曲の傑作」に位置付けている[86]

バックスはかなりの数の合唱曲を書いており、多くは世俗曲であるが一部には宗教曲もある。彼はイングランド国教会の登録会員であったが、評論家のポール・スパイサーの見立てでは「バックスの合唱音楽には信心があると言い得るものはなく、教会での使用に適していると言えるものすらひとつもない(中略)ここにいるのは肉感的な音楽を書く世俗作曲家である[90]。」宗教的テクストを用いた合唱作品には、ウィリアム・バードの『5声のミサ曲』に触発されて書かれた、バックスの無伴奏声楽作品で最大の規模を誇る『Mater ora Filium』(1921年)がある。テクストはオックスフォード大学ベリオール・カレッジが保有する草稿にある、中世のキャロルに依っている[90]。作曲家のパトリック・ハドリーはこの作品を「現代の無伴奏声楽作品の比類なき例」と考えている[91]。バックスは他にもシェリー(『Enchanted Summer』、1910年)、ヴォーン英語版(『The Morning Watch』、1935年)、メイスフィールド(『To Russia』、1944年)、スペンサー(『Epithalamium』、1947年)らのテクストを用いて合唱作品を作曲している[15]

室内楽曲とピアノ独奏曲

エヴァンスはバックスの初期室内楽作品の総説の中で、最も成功した作品群としてヴィオラのための幻想曲、ピアノ、ヴァイオリンとヴィオラのための三重奏曲、そして「あまりにも難しく、もし可能であったにしても適切な演奏は稀な弦楽四重奏曲」を挙げている。彼はヴァイオリンソナタ第2番(1915年)が、それまでバックスの書いた作品の中で最も個性的であると評する。エヴァンスの考えでは、バックスの初期室内楽の頂点を築くのはピアノ五重奏曲であり、この作品は「あらゆる国または時代の音楽に関する文献を飾ることが出来るほどの創意の豊かさ」を備えるという[92]。フォアマンは弦楽四重奏曲第1番(1918年)の「古典的なテクスチュアの明晰さとケルト的発想の形式」に加え、「ザラついた感の増した」弦楽四重奏曲第2番(1925年)、ヴィオラソナタ(1922年)、ヴィオラとハープのための幻想ソナタ(1927年)、フルートとハープのためのソナタ(1928年)に特に言及している[15]

作曲家で音楽学者のクリストファー・パーマーは、バックスは多数のピアノ独奏曲を残したという意味で、イギリスの作曲家の中では例外的な存在であると指摘する[注 12]。バックスは4つのピアノソナタ(1910年-1932年)を発表しており、パーマーの見解によると交響曲が管弦楽作品の中心となるのと同じく、これらがバックスのピアノ音楽の中心であるという[94]。最初の2つのソナタはいずれも単一楽章で構成され、演奏時間は約20分である。第3番と第4番は伝統的な3楽章形式をとっている[93][94]。交響曲第1番は当初、変ホ長調の大規模なピアノソナタ(1921年)として構想された作品だった。このピアノソナタは1980年代初頭に見出され、1983年に初演されている[95]。バックス自身のピアニストとしての高い技術が、彼の多くのピアノ作品が要求するところに反映されている。パーマーはバックス作品には至る所にバラキレフをはじめとするロシア人の影響が認められると同時に、ピアノのスタイルへの主たる影響としてショパンリストを引き合いに出している[93]。2台のピアノのための作品として、バックスは2つの交響詩『Moy Mell』(1917年)と『Red Autumn』(1931年)を作曲した[94]。もっと小ぶりなピアノ曲には、『In a Vodka Shop』(1915年)、『A Hill Tune』(1920年)、『Water Music』(1929年)といった絵画的ミニチュアなどがある[93]


注釈

  1. ^ その他の兄弟にはアルフレッド(1884年-1895年)、エヴェリン(1887年-1984年)がいた[3]。作曲家のグスターヴ・ホルストはクリフォードから占星術の手ほどきを受けており、その縁でアーノルドとも親しい間柄であったという。
  2. ^ この「名言」はトーマス・ビーチャムのものであるとしばしば誤解されているが[12]、名前を明かさず「同情的なスコット」の言葉としてバックスの回顧録に登場するのが出版物での初出である[11]。後に発言者は指揮者のガイ・ウォラックであったと同定されている[13]
  3. ^ 王立音楽大学においてスタンフォードやパリーらに学んだという記述もある[6]
  4. ^ 指揮に対して抱いていた希望はいっそう少なく、決してすまいと誓いを立て、その誓いを破ったのは1906年の1度だけであった[16]
  5. ^ この作品は1985年にブライデン・トムソン指揮、アルスター管弦楽団の演奏で録音されている[27]
  6. ^ フォアマンはバックスに影響を与えた人物を次のように列挙している:ワーグナー、シュトラウス、ドビュッシー、ロシア5人組バラキレフキュイムソルグスキーリムスキー=コルサコフボロディン)、グラズノフラヴェルシベリウス、初期のストラヴィンスキー[1]
  7. ^ ルイーズはハムステッド音楽院で教えており、バックスは音楽院時代にエルシタと知り合っていた[29]
  8. ^ 表示しているのは試訳。原文は次の通り。And when the devil's made us wise / Each in his own peculiar hell / With desert hearts and drunken eyes / We're free to sentimentalise / By corners where the martyrs fell.
  9. ^ この愛人関係は公に知られてはいなかったものの、音楽関係者の間では周知の事実だった。ある音楽事典でハリエット・コーエンの項に「バックスを参照のこと」と書かれているのを見つけたヴォーン・ウィリアムズは、大層愉快がったという[37]。妻のエルシタ・バックスは夫との離婚を拒み、1947年に没するまで婚姻関係を継続した[38]
  10. ^ コーエンはバックスとグリーヴズの関係の本質を無視することを選択し、後年グリーヴズについて「サー・アーノルドの看護婦」と表現した[49]
  11. ^ オーケストラ奏者のバックスへの敬意は報いられた。『ロンドン市民』(1937年)は「BBC交響楽団の我が友人たちへ」と捧げられている[69]
  12. ^ エルガー、ディーリアス、ヴォーン・ウィリアムズ、ホルスト、ウォルトン、ブリテンらのイギリスの作曲家は、ピアノ独奏にあまり関心を示さず、曲を書くことも少なかった、というのがパーマーのコメントである[93]
  13. ^ 第1番、第2番はメイヤー・フレッドマンの指揮(1970年)、第5番はレイモンド・レッパード(1971年)、第6番はノーマン・デル・マー(1966年)、第7番はレッパードであった[98]

出典

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