アメリカ合衆国の植民地時代 統一から革命

アメリカ合衆国の植民地時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/06 01:18 UTC 版)

統一から革命

王室宣言

1763年のパリ条約締結後間もなく持ち上がった不平等の大衆感覚は、アパラチア山脈を越えて西に開拓者が入ることを一時的に禁じた1763年宣言ではっきりしてきた。植民地人はこれに不満であり、その禁制は守られなかった。

イギリス議会の法令

イギリスの議会は概してヨーロッパの事情に捉われており、植民地の統治は植民地に任せるようになっていた。しかしそうしてもおれなくなった。この政策変更から生まれた下記のような一連の法制がニューイングランドの植民地に直接影響し、その後の13年間で13植民地に次々と反対運動を巻き起こした。

  • 通貨法(1764年)
  • 砂糖法(1764年)
  • 印紙法(1765年)
  • 第一次宿舎法(1765年)
  • 宣言法(1766年)
  • タウンゼント歳入法(1767年)
  • 茶法(1773年)
  • 耐え難き諸法高圧的諸法あるいは懲罰的諸法とも呼ばれた
    • 第二次宿舎法(1774年)
    • ケベック法(1774年)
    • マサチューセッツ統治法(1774年)
    • 裁判権法(1774年)
    • ボストン港法(1774年)
  • 通商禁止法(1775年)

植民地の生活

ニューイングランド

ニューイングランドでは、ピューリタンが農夫すなわちヨーマンとその家族の宗派による自治社会を創り出した。高いレベルの政治家が男性開拓者すなわち土地所有者達に土地区画を分け与え、土地所有者達が自分達の間で割り当てを決めた。土地の大きな区画は社会的に高い地位にある男性に与えられるのが通常だったが、白人のあらゆる男性は家族を養うに足るだけの土地を持った。さらに重要なことは白人のあらゆる男性が町の集会で発言権があったことだった。町の集会は税金を課し、道路を建設することを決め、町の諸事を行う役人を選出した。

ピューリタンが設立した会衆派教会は、神は救済に値する数少ない人のみを選び出すという信仰があったために、ニューイングランドの全ての住民が自動的に参加したわけではなかった。実際に教会員になるには教会員の前で救われてきたことを納得のいくように「テスト」できる者に限られた。彼らは「選ばれし者」あるいは「聖者」と呼ばれ、ニューイングランド人口の40%に満たなかった。

農園の生活

ニューイングランド住人の大多数は小農だった。これら小農の家族の中では、またイングランド人家族も男性がその資産と妻に対して絶対的権力を持った。イングランド人女性は結婚すると旧姓と個人としてのアイデンティティを失ったので、寡婦になったとしても、自己資産を持てず、訴訟を起こせず、政治に参加できなかった。妻の役割は健康な子供を産んで育てることであり、その夫を支えることだった。大半の女性はこの義務を遂行した。18世紀半ばに女性は通常20代初期に結婚し、6人から8人の子供を産み、子供達は大抵成人まで育った。農家の女性は羊毛から毛糸を紡ぎ、セーターやストッキングを編み、蝋燭や石鹸を作り、ミルクを攪拌してバターを作ることで家族が必要とする物資の大半を供給した。

18世紀から19世紀半ばの経済成長

ニューイングランドの大半の親はその息子達が自分達の農園を築くのを援助しようとした。息子たちが結婚すると父親は土地、家畜あるいは農機具を贈り物にした。娘達は家財道具、農園の動物あるいは現金を受け取った。見合い結婚は大変稀だった。通常は子供達が宗教や社会的地位の同じような適当な知り合いの輪の中から配偶者を選んだ。両親は子供達の結婚について拒否権を持っていた。

ニューイングランドの農家は通常木材が豊富だったので木の家に住んだ。ニューイングランドの典型的な農家は中2階建てで強い枠組み(通常は大きな角材で造られた)を持ち、木製のよろい張り下見壁板で覆われた。調理のためと冬季の暖房のために家の中心には大きな煙突が立てられた。1階部分の一端にはホールがあり、家族が働いたり食事を摂る多目的の部屋として使われた。ホールに隣接して客間があって客をもてなすために使われ、家内で一番の家具や両親のベッドが置かれた。子供達は上のロフトで寝み、台所はホールの一部にあるか、家の裏の物置部分にあった。植民地時代の家族は大きかったので、このような小さな家屋では多くのことが行われ、ほとんどプライバシーは無かった。

18世紀半ばまでに、このような生活様式は危機に直面していた。地域人口は1700年の10万人から1725年の20万人、1750年の35万人と、世代ごとにほぼ倍増したが、これは各家族が多くの子供を抱え、多くの者は60歳まで生きたからだった。マサチューセッツ、コネチカットおよびロードアイランドの植民地人は農夫の間でその土地を小分けし続けていたので、農場はあまりに小さくなり、一つの家族を養えなくなった。この過剰な人口によってニューイングランドの独立したヨーマン農夫による理想の社会が脅かされるようになった。

農夫の中にはマサチューセッツやコネチカットの未開の地で農場を作るために土地特許を得るか、ニューハンプシャー、後にバーモント州となった所で土地投機家から土地区画を購入する者がいた。農業の革新者になる農夫もいた。ムラサキツメクサチモシー・グラスのような家畜の餌になるイングランドの滋養のある草を植え、生産性が高くて小農にも利益になるジャガイモを育てた。農家の家族は互いに商品を交換したり労働を助け合うことで生産性を上げた。彼らは家畜や放牧地を貸し借りし、共同して毛糸を紡ぎ、キルトを縫い、トウモロコシの皮をむいた。移住、農業の確信および経済的共同作業によって19世紀までニューイングランドのヨーマン社会を保存する創造的手段となった。

町の生活

18世紀半ばまでにニューイングランドでは造船が主要産業になった。イギリスの王室は安価で頑強なアメリカ製船舶に目を向けることが多かった。ニューイングランドにある川の河口ほとんど全てに造船所があった。

1750年までに様々な職人、商店主および商人が成長する農民のためにサービスを提供した。鍛冶屋、車輪修理工および家具職人が地方の村に店を構え、そこで農家が必要とする商品を作ったり修理したりした。衣類、鉄製具、窓ガラスなどイングランドの製品や、砂糖や糖蜜など西インド諸島の製品を売る商店は貿易業者が開店した。これら店舗の商店主は農作物や屋根板、炭酸カリウム、樽板など地元製品と引き換えに輸入した商品を販売した。これら地方産の製品は大西洋岸の町や都市に運ばれた。企業家はこの輸送のために荷馬車道に沿って馬小屋や酒場を作った。

これらの製品がマサチューセッツのボストンやセイラム、コネチカットのニューヘイブンおよびロードアイランドのニューポートのような港町に運ばれた後、商人はそれらを西インド諸島に輸出し、糖蜜、砂糖、金貨および交換手形と取引した。彼らは西インド諸島の製品をニューイングランドの工場に運び、そこで生のサトウキビが砂糖に精製され、糖蜜はラム酒に醸造された。金や交換手形はイングランドに送られて商品と交換され、その商品が植民地に運ばれて砂糖やラム酒と共に農家に売られた。

ニューイングランドの商人には大西洋岸の豊かな漁場を利用して、大規模な漁業船隊を手当てし、収穫物のサバタラを西インド諸島やヨーロッパに運んで利益を出す者もいた。またある商人は海岸やニューイングランド北部の河川で大量の木材を取引した。彼らは製材所を造って家屋や船舶のために安価な木材を供給した。ニューイングランドの数百の造船工は外洋航行船舶を建造し、イギリスやアメリカの商人に販売した。

多くの商人はその商品を農民に供給することで大きな富を掴み、海港都市の社会を支配するようになった。ヨーマン農家とは異なり、これら商人はイングランド上流階級の生活様式を真似て、新しいジョージア調で設計された中3階建て家屋に住んだ。これらジョージア調家屋は対称的なファサードがあり、中央のドアの両側に同じ数の窓があった。内部には家の中心を通る廊下があり、その両側に図書室、食堂、きちんとした客間、および家主の寝室といった用途を持った部屋があった。ヨーマンの家にある多目的なホールや客間とは異なり、これらの部屋はそれぞれ異なる目的のために使われた。ジョージア調家屋では、男性が主に図書室のような特定の部屋を使い、女性は大半が台所を使った。これらの家屋には二階に寝室があり、両親も子供達にもプライバシーが保たれた。

文化と教育

マサチューセッツホール、ハーバード大学で最古の現存する建物、1718年-1720年に寮として建造

ニューイングランドでは初等教育が普及した。初期ピューリタン開拓者は聖書を勉強することが必要だと考えたので、子供達は早い段階で読むことを教えられた。それぞれの町は初等教育の費用を出すことも求められた。約10%の子供は中等教育まで進み、大きな町ではグラマースクールも備えられた。少年の大半は父から農業技術を習うか、職人の所に徒弟奉公に出された。正式な学校に入学する少女は少なかったが、大半は家庭あるいは基本的な読み書きが女性自身の家で教えられたいわゆる「ダーム・スクール」(おばさん塾)で幾らかの教育を受けることができた。1750年までにニューイングランドの女性の90%近く、また男性はほとんど全員が読み書きできていた。ピューリタンは1636年にハーバード大学、1701年にイェール大学を設立した。その後バプテストが1764年にロードアイランド・カレッジ(現在のブラウン大学)、会衆派教会が1769年にダートマス大学を設立した。バージニアでは1693年にウィリアム・アンド・メアリー大学を設立していた。この大学は主として牧師、弁護士あるいは医者を目指す者にアピールしていた。独立した神学校あるいはロースクールというものは無かった。

ニューイングランド人は日記、小冊子、書籍および特に説教を著したが、これは他の植民地を併せたよりも量が多かった。ボストンの牧師であるコットン・マザーが『マグナリア・クリスティ・アメリカーナ』(アメリカにおけるキリストの偉大な仕事、1702年)を出版し、信仰復興論者のジョナサン・エドワーズはその哲学書「慎重で厳密な質問...自由意志の...概念...』(1754年)を著した。音楽の大半には宗教的なテーマによって作られ、主に賛美歌が歌われた。ニューイングランドでは信仰心が篤かったので、十分に宗教的ではなかったりあまりに「世俗的な」芸術作品特に劇は禁じられた。

宗教

植民地アメリカに移民してきた者達の中には信仰の自由を求めてきた者がいた。ロンドンは植民地にイングランド国教会の機関を作らなかった。司祭も派遣しなかったので、宗教は多様化した[22]

第一次大覚醒」は1730年代と1740年代に大半の植民地で起こった大きな宗教復興運動だった[23]。この運動は、ピルグリムの厳格なカルヴァン主義のルーツへの復帰と「神の畏れ」の覚醒を求めたマサチューセッツの説教師ジョナサン・エドワーズによって始められた。イギリスの説教師ジョージ・ホウィットフィールドなど遊歴する説教師が運動を続け、植民地を巡って劇的で感情を揺り動かすスタイルの説教を行った。エドワーズの追随者やその他同じ様に信心深い説教師が自分達のことを「ニューライト」と呼び、彼らの運動を不可とした「オールドライト」と対照させた。彼らの見解を普及させるためにこの双方がプリンストン大学ウィリアムズ・カレッジなど学校やカレッジを設立した。「第一次大覚醒」は真のアメリカ人による最初の出来事と言われてきた[24]

類似した敬虔な信仰復興運動がドイツ人やオランダ人の開拓者の中で生まれ、別の会派を生むようになった。1770年代までにバプテストは北部でも南部でも急速に成長した。北部ではブラウン大学を設立し、南部では以前に問題にされなかったイングランド国教会の道徳的権威に異議を申し立てた。

大西洋岸中部

大西洋岸中部はニューイングランドとは異なり、新しい移民によって人口が増え、1750年までにニューヨーク、ニュージャージー、およびペンシルベニア各植民地を合わせた人口は30万人近くまで達していた。この年までにアイルランド人約6万にとドイツ人約5万人がイギリス領北アメリカに渡って来ており、その多くは大西洋岸中部に定着した。1682年にペンシルベニア植民地を創設したウィリアム・ペンは、信仰の自由と不動産の自由保有権という政策によって移民の流入を奨励した。「不動産の自由保有権」とは農夫がその土地を無料で所有し、賃貸ではないことを意味した。最初に移民の流入が起こったのは主にアイルランドからだった。多くのドイツ人は宗教的な紛争から逃れ、ドイツやスイスでの減退しつつあった経済機会を避けて来ていた。

生活様式

大西洋岸中部の建築の多くはその民族の多様性を反映していた。ニューヨーク植民地のオールバニやニューヨーク市では、建物の大多数がオランダ様式で、煉瓦の外装と両端の高い破風が特徴であり、多くのオランダ教会は八角形のように造られた。ペンシルベニアのドイツ人やウェールズ人開拓者は母国でのやり方に倣ってその家屋に切り石を使い、この地域に多量にあった木材は完全に無視した。この例としてフィラデルフィアのジャーマンタウンは、建物の80%が完全に石で造られた。一方、アイルランドからの開拓者はアメリカで豊富に得られる木材を活かして堅牢な丸太小屋を建設した。

民族の文化は家具の様式にも影響した。田園部のクエーカー教徒はテーブル、椅子、チェストのような家具に単純なデザインを好み、華美な装飾を避けた。しかし都会のクエーカー教徒は精巧な細工の家具を所有した。フィラデルフィア市はクエーカー教徒やイギリス人商人の大きな富があったために家具製作の大きな中心地になった。フィラデルフィアの家具職人は優美な机や箪笥を製作した。ドイツ人の職人はそのチェストなどの家具に手の込んだデザインを施し、花や鳥のある景色を描いた。ドイツ人陶器工は優雅で伝統的なデザインのジャグ、ポットおよび皿を多く制作した。

女性の待遇についても民族による違いがあった。ニューイングランドのピューリタン開拓者では、妻が夫と一緒の畑で働くことはほとんど無かった。ペンシルベニアのドイツ人社会では多くの女性が畑や馬小屋で働いた。ドイツ人やオランダ人の移民は女性がその資産を管理することを認めたが、これはイギリスの法律では認められていなかった。イギリス植民地の妻とは異なり、ドイツ人やオランダ人の妻は自分の衣類など物品を所有し、結婚する時に持ってきた資産の処分について遺書を書くこともできた。

アメリカ独立戦争の時までに、白人アメリカ人の約85%はイングランド人アイルランド人ウェールズ人およびスコットランド人の子孫だった。白人の約8.8%はドイツ人、3.5%はオランダ人を起源としていた。

農業

民族の多様性は農業のやり方にも違いを生んだ。その例として、ドイツ人農夫は通常鋤を引かせるのに馬よりも牛を好み、スコットランド系アイルランド人はブタやトウモロコシを基本にする農業経済だった。アイルランドでは、農夫が懸命に働き、小さな土地から可能な限り生産性を上げて行こうとしていた。アメリカの植民地では、アイルランド北部から来た開拓者が混合農業を目指した。このやり方で、人が食し、ブタなど家畜の餌にするためにトウモロコシを育てた。あらゆる異なる出自の農夫が改善を志し、その結果を残す為に新しい農業手法を使い始めた。1750年代、これら農業の改革者は干草、小麦および大麦の収穫に用いた鎌や大鎌を、穀物の束を集めやすい木の柄のついた揺動鎌に置き換えた。この道具で農夫が一日にできる作業を3倍にした。農夫は肥やしや農業用石灰を使って土地を肥やし、土壌を肥沃にしておくために輪作も始めた。

1720年以前、大西洋岸中部の植民地人の大半は小規模な農場で働き、西インド諸島にトウモロコシや小麦粉を輸出することで輸入された商品を購入した。ニューヨークでは生皮をヨーロッパに輸出することで地域にさらに富をもたらした。1720年以降、大西洋岸中部の農業は小麦に対する国際的な需要で潤った。ヨーロッパにおける人口の爆発は小麦価格を上昇させた。1770年までに、小麦1ブッシェルの価格は1720年の2倍になった。アイルランドのリンネル産業で亜麻が大きく求められたことや西インド諸島でトウモロコシの需要があったので、亜麻仁やトウモロコシの生産高も上げていった。

到着したばかりの移民の中には農場を購入しこの輸出による富を共有できた者もいたが、多くの貧しいドイツ人やアイルランド人の移民は農業労働者として働くことを強いられた。商人や職人も衣類などの商品を国内で製作するために、これら家の無い労働者を雇用した。商人は農夫から羊毛や亜麻を買い、その家で材料を毛糸に紡ぎ衣類にするために、アイルランドやドイツで繊維工場の労働者だった到着したばかりの移民を雇用した。大規模農場主や商人は富が増し、小規模農場主や職人は生きていくだけの稼ぎしか得られなかった。大西洋岸中部では1750年までに民族的出自と富の双方で分化が進んだ。

海港

小麦貿易で拡大した海港では大西洋岸中部の何処よりも社会階級の分化が進んだ。1750年までにフィラデルフィアの人口は25,000人に達し、ニューヨークには15,000人、ボルティモアには7,000人がいた。商人が海港の社会を支配し、約40人の商人でフィラデルフィアの貿易の半分を支配した。裕福なフィラデルフィアとニューヨークの商人は、ニューイングランドの商人に似て、優美なジョージア調の邸宅を建設した。

商店主、職人、造船業者、肉屋、桶屋、裁縫師、靴屋、パン屋、大工、石工、など多くの専門化した職種が海港社会の中間層を占めた。妻や夫はチームで働き、子供達にその技能を教えて家族に継承して行った。これら職人や貿易業者の多くはそこそこの生活をするだけの資産を作った。

労働者が海港社会の底辺にいた。これら貧しい人々は到着する船から荷を降ろし、出港する船に小麦、トウモロコシおよび亜麻仁を積むためにドックで働いた。その多くはアフリカ系アメリカ人であり、その中でも自由を得た者や奴隷になった者もいた。1750年ニューヨークとフィラデルフィアの人口のうち、約10%が黒人だった。船員の多く、その中にはアフリカ系アメリカ人もいたが、商船の水夫として働いた。

南部植民地

南部植民地は主に、メリーランド、バージニアおよびサウスカロライナ各植民地の富裕な奴隷所有農場主によって支配されていた。農園主は広大な土地を所有し、アフリカ人奴隷を働かせた。1750年に南部の人口65万人のうち、約25万人すなわち40%は奴隷だった。農園主はその富を使って土地の小作人やヨーマン農夫を支配した。選挙があるときには、これら農夫にラム酒を贈り、低い税金を約束して植民地の議会を支配した。

プランテーション

植民地初期の苦しく飢えのあった時代の後の1720年代から、農園主の次の世代は大きなジョージア調の邸宅を建設し始め、馬の背で鹿を狩った。南部植民地の裕福な女性はイギリスの文化も共有した。彼女達はイギリスの雑誌を読み、イギリスデザインの流行の服を着し、優雅な午後の紅茶を楽しんだ。繁華な海港であるサウスカロライナのチャールストンでタウンハンスに住む米プランテーション所有者が最も成功した例だった。メリーランドのアナポリスのような町やバージニアのジェームズ川に沿ったタバコ・プランテーションでは活動的な社交シーズンがあった。

奴隷

アイ、タバコおよび米の畑で働いたアフリカ人奴隷は西アフリカや中央アフリカから来ていた。植民地アメリカの奴隷制は世代から世代に移るにつれて大変抑圧的なものになり、奴隷は法的権利を持たなかった。砂糖やコーヒーのような商品の生産に特化した植民地は最も奴隷に依存し、その結果新世界でも最も高い(奴隷を含む)一人当たり生産高を示した。しかし、奴隷は大変貧しく生きていくだけのものしか与えられなかった。1500年から1700年の間に、新世界に渡った600万人のうち60%は不本意な奴隷だった。1700年、チェサピーク湾地域には約9,600人の奴隷がおり、カロライナには数百人がいただけだった。それから50年間に約17万人のアフリカ人が到着した。1750年までにイギリス領アメリカには25万人以上の奴隷がおり、カロライナの場合は全人口の約60%が奴隷だった。植民地時代が終わった後の最初の国勢調査では、697,681人の奴隷と59,527人の自由黒人がおり、両者合わせて国内人口の約20%に相当した。サウスカロライナの奴隷の大半はアフリカ生まれであり、バージニアとメリーランドの奴隷の半分は植民地で生まれていた。

脚注


注釈

  1. ^ フロリダ、ミシシッピ、カリフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコ、テキサス、ネバダ、ユタの各州とコロラド州とワイオミング州の一部、さらにプエルトリコ
  2. ^ ハワイは植民地であることは無かった。独立国となり1898年にアメリカ合衆国に加盟した
  3. ^ 1664以前はオランダがニューネーデルラントの一部として領有権を主張した。これはゴードフープ砦と呼ばれた1636年設立のハートフォード植民地も同様であり、イギリスの植民よりも早かった。

出典

  1. ^ a b c d e f g h Cooke, ed. North America in Colonial Times (1998)
  2. ^ http://www.dalhousielodge.org/Thesis/scotstonc.htm
  3. ^ Colonial North America
  4. ^ Richard Middleton, Colonial America: A History, 1565-1776 3rd ed. 2002.
  5. ^ Wallace Notestein, English People on Eve of Colonization, 1603-30 (1954)
  6. ^ Michael Gannon, The New History of Florida (1996)
  7. ^ a b David J. Weber, The Spanish Frontier in North America (2009)
  8. ^ a b Andrew F. Rolle, California: A History, 2008.
  9. ^ Michael G. Kammen, Colonial New York: A History (1996)
  10. ^ Johnson, Amandus The Swedes on the Delaware (1927)
  11. ^ Meeting of Frontiers: Alaska - The Russian Colonization of Alaska
  12. ^ Russian Settlement at Fort Ross, California, in the 19th century
  13. ^ Butler, James Davie (1896年10月). “British Convicts Shipped to American Colonies”. American Historical Review 2. Smithsonian Institution, National Museum of Natural History. 2007年6月21日閲覧。
  14. ^ a b c Alan Taylor, American Colonies,, 2001.
  15. ^ a b Ronald L. Heinemann, Old Dominion, New Commonwealth: A History of Virginia, 1607-2007, 2008.
  16. ^ a b c d e f James Ciment, ed. Colonial America: An Encyclopedia of Social, Political, Cultural, and Economic History, 2005.
  17. ^ Donaldson, Thomas, ed. (1881), The Public Domain., Washington: House of Representatives, pp. 465 – 466, https://books.google.co.jp/books?id=SWUFAAAAQAAJ&printsec=titlepage&redir_esc=y&hl=ja 
  18. ^ H. W. Brands, The First American: The Life and Times of Benjamin Franklin (2002)
  19. ^ a b c Fred Anderson, The War That Made America: A Short History of the French and Indian War (2006)
  20. ^ a b Daniel Vickers, ed. A Companion to Colonial America (2006), ch 13-16
  21. ^ Bailyn, Bernard, The Ideological Origins of the American Revolution (1967); Jack P. Greene and J. R. Pole, eds. A Companion to the American Revolution (2003)
  22. ^ Sydney E. Ahlstrom, A Religious History of the American People (2nd ed. 2004) ch 17-22
  23. ^ Sydney E. Ahlstrom, A Religious History of the American People (2nd ed. 2004) ch 18, 20
  24. ^ Historian Jon Butler has questioned the concept of a Great Awakening, but most historians use it. John M. Murrin (June 1983). “No Awakening, No Revolution- More Counterfactual Speculations”. Reviews in American History 11 (2): 161–171. doi:10.2307/2702135. http://links.jstor.org/sici?sici=0048-7511(198306)11%3A2%3C161%3ANANRMC%3E2.0.CO%3B2-0. 





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アメリカ合衆国の植民地時代」の関連用語

アメリカ合衆国の植民地時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アメリカ合衆国の植民地時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアメリカ合衆国の植民地時代 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS