アメリカ合衆国の植民地時代 イギリスによる管理の統一

アメリカ合衆国の植民地時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/06 01:18 UTC 版)

イギリスによる管理の統一

共通の防衛

植民地人がイギリスの臣民であるというアイデンティティを共有することを思い出させた事件は、ヨーロッパにおけるオーストリア継承戦争(1740年-1748年)だった。この紛争は植民地にも及び、ジョージ王戦争と呼ばれた。大きな戦闘はヨーロッパで起こったが、アメリカ人が管轄した部隊がニューヨーク植民地やニューイングランドでフランス軍およびその同盟インディアンと戦った。

1754年のオールバニ会議では、ベンジャミン・フランクリンが各植民地は防衛、拡張およびインディン問題で共通の政策を守る為に国民大会議で統一すべきという提案を行った。この案は各植民地議会およびジョージ2世に拒絶されたが、北アメリカのイギリス植民地が統一に向けて動き出す前触れとなった[18]

フレンチ・インディアン戦争

フレンチ・インディアン戦争の時のジョージ・ワシントン
ベンジャミン・フランクリンの政治風刺漫画、フレンチ・インディアン戦争に対して植民地の統合を呼びかけている。この絵はアメリカ独立戦争のときにも使われた。

フレンチ・インディアン戦争(1754年-1763年)は七年戦争と呼ばれたヨーロッパ全体の紛争をアメリカに拡大したものだった。北アメリカにおけるそれ以前の植民地戦争はヨーロッパで始まり、それが植民地に広がったものだったが、フレンチ・インディアン戦争の場合は北アメリカで始まり、その後にヨーロッパに広まったことで特徴的だった。イギリスとフランスの間の競合は特に五大湖やオハイオ川渓谷で拡大し、それが戦争の主要原因の一つになった[19]

フレンチ・インディアン戦争はイギリスの首相大ピットが如何なる犠牲を払ってでもフランスに勝たなければならないと決心した時に、北アメリカのイギリス植民地人にとって重大なものとなった。初めて北アメリカが「世界戦争」と呼ばれるものの主要戦場になった。この戦争中、イギリス植民地(後にアメリカ合衆国の基盤になった13植民地を含む)のイギリス帝国における位置付けが実際に明白なものとなり、イギリスの軍隊と文民の指導者の存在がアメリカ人の生活の中で大きなものになった。この戦争はまた別の面でアメリカの統一という感覚を育てた。兵士達は通常自国から外には出なかったが、それが大陸を移動し、はっきりと異なるがやはり「アメリカ人」という背景を持つ者達と共に戦った。戦争の進展の中で、イギリス軍士官がアメリカ人を訓練した(最も著名なのがジョージ・ワシントン)。これはアメリカ独立戦争のときには有益だった。また、各植民地議会と役人は大陸全体にわたる軍事行動を行うために、初めて広範な共同行動をとる必要があった[19]

フレンチ・インディアン戦争の後の領土変化、1763年以前にイギリスが所有していた領土は赤、それ以後に得た領土はピンクで示す。

1763年パリ条約で、フランスはその広大な北アメリカ帝国をイギリスに割譲した。戦前にイギリスが持っていたのは13植民地とノバスコシアの大半、およびハドソン湾地域の大半だった。戦後はミシシッピ川より東のフランス領全て、これにはケベック、五大湖およびオハイオ川流域の全てを含む領土を得た。またスペイン領だった東フロリダと西フロリダも獲得した。13植民地から外国の脅威を排除することで、植民地人が自らを防衛する必要性がほとんど無くなった。

イギリスと植民地人は共通の敵に対して共に戦い勝利した。母国に対する植民地人の忠誠心は戦前より強くなった。しかし、植民地内の不統一も形成され始めていた。イギリスのピット首相は植民地の軍隊を使うことで植民地での戦争を遂行し、資金はイギリス本国に課税することで賄うことにしていた。これは戦時の戦略としては成功だったが、戦争が終わると双方は互いよりも大きな重荷を負っていると考えた。イギリスの特権階級はヨーロッパの何処よりも重い税を掛けられており、植民地人がイギリスの国庫にほとんど金を納めていないことを怒りをもって指摘した。植民地人は彼らの息子達が戦って死んだのは自分達の利益よりもヨーロッパの利益に多く貢献したと反応した。この論争はその後にアメリカ独立をもたらすことになる一連の出来事に繋がっていった[19]

イギリス帝国への結びつき

各植民地は互いに大変異なってはいたが、文字通りイギリス帝国の一部のままだった。

社会的には、ボストン、ニューヨーク市、チャールストンおよびフィラデルフィアの植民地特権階級は自分達をイギリス人と考えていた。多くの者はイギリスに行ったことも無かったが、服装、ダンスおよびエチケットなどイギリスの様式を模倣した。この社会的上流階級はジョージア様式の邸宅を建て、トーマス・チッペンデールの家具デザインを真似し、啓蒙時代というヨーロッパの知性の流れに迎合した。住人の多くにとって植民地アメリカの海港都市はイギリスの都市そのものだった[20]

植民地の政治機構の多くはイギリスの野党指導者、特に著名なものとしてコモンウェルスマンとホイッグ党の伝統である者達が表明した共和制を採用した。当時のアメリカ人の多くは、植民地の統治制度をイギリスの憲法をモデルにしていると考え、国王は知事に相当し、イギリスの庶民院は植民地議会に、貴族院は知事諮問委員会に相当すると見なした。植民地の法典はイギリス法から直接引いてくることが多かった。実際にイギリスのコモン・ローがカナダだけでなくアメリカ合衆国全体で生き残っている。つまるところこれら政治的理想の幾つかの意味するもの、特に代議制共和主義に関する論争がアメリカ独立に向かっていくことになった[21]

植民地人がイギリスと異なるというよりも類似していると考えたもう一つのポイントは、急増するイギリス商品の輸入についてだった。イギリス経済は17世紀の終わりに急激な成長を始め、18世紀半ばまでにイギリスの小さな工場が国内で消費する以上のものを生産するようになった。イギリスはその市場を北アメリカに求めたので、輸出高は1740年から1770年の間に360%の増加を見た。イギリスの商人は得意客に寛大な信用払いを提供したので、アメリカ人は大量のイギリス製品を買うようになった。ノバスコシアからジョージアまで全てのイギリス臣民が類似した製品を購入し、ある種英国化された共通の感覚を持つようになった[20]


注釈

  1. ^ フロリダ、ミシシッピ、カリフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコ、テキサス、ネバダ、ユタの各州とコロラド州とワイオミング州の一部、さらにプエルトリコ
  2. ^ ハワイは植民地であることは無かった。独立国となり1898年にアメリカ合衆国に加盟した
  3. ^ 1664以前はオランダがニューネーデルラントの一部として領有権を主張した。これはゴードフープ砦と呼ばれた1636年設立のハートフォード植民地も同様であり、イギリスの植民よりも早かった。

出典

  1. ^ a b c d e f g h Cooke, ed. North America in Colonial Times (1998)
  2. ^ http://www.dalhousielodge.org/Thesis/scotstonc.htm
  3. ^ Colonial North America
  4. ^ Richard Middleton, Colonial America: A History, 1565-1776 3rd ed. 2002.
  5. ^ Wallace Notestein, English People on Eve of Colonization, 1603-30 (1954)
  6. ^ Michael Gannon, The New History of Florida (1996)
  7. ^ a b David J. Weber, The Spanish Frontier in North America (2009)
  8. ^ a b Andrew F. Rolle, California: A History, 2008.
  9. ^ Michael G. Kammen, Colonial New York: A History (1996)
  10. ^ Johnson, Amandus The Swedes on the Delaware (1927)
  11. ^ Meeting of Frontiers: Alaska - The Russian Colonization of Alaska
  12. ^ Russian Settlement at Fort Ross, California, in the 19th century
  13. ^ Butler, James Davie (1896年10月). “British Convicts Shipped to American Colonies”. American Historical Review 2. Smithsonian Institution, National Museum of Natural History. 2007年6月21日閲覧。
  14. ^ a b c Alan Taylor, American Colonies,, 2001.
  15. ^ a b Ronald L. Heinemann, Old Dominion, New Commonwealth: A History of Virginia, 1607-2007, 2008.
  16. ^ a b c d e f James Ciment, ed. Colonial America: An Encyclopedia of Social, Political, Cultural, and Economic History, 2005.
  17. ^ Donaldson, Thomas, ed. (1881), The Public Domain., Washington: House of Representatives, pp. 465 – 466, https://books.google.co.jp/books?id=SWUFAAAAQAAJ&printsec=titlepage&redir_esc=y&hl=ja 
  18. ^ H. W. Brands, The First American: The Life and Times of Benjamin Franklin (2002)
  19. ^ a b c Fred Anderson, The War That Made America: A Short History of the French and Indian War (2006)
  20. ^ a b Daniel Vickers, ed. A Companion to Colonial America (2006), ch 13-16
  21. ^ Bailyn, Bernard, The Ideological Origins of the American Revolution (1967); Jack P. Greene and J. R. Pole, eds. A Companion to the American Revolution (2003)
  22. ^ Sydney E. Ahlstrom, A Religious History of the American People (2nd ed. 2004) ch 17-22
  23. ^ Sydney E. Ahlstrom, A Religious History of the American People (2nd ed. 2004) ch 18, 20
  24. ^ Historian Jon Butler has questioned the concept of a Great Awakening, but most historians use it. John M. Murrin (June 1983). “No Awakening, No Revolution- More Counterfactual Speculations”. Reviews in American History 11 (2): 161–171. doi:10.2307/2702135. http://links.jstor.org/sici?sici=0048-7511(198306)11%3A2%3C161%3ANANRMC%3E2.0.CO%3B2-0. 





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