Shunsuke Tsurumiとは? わかりやすく解説

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鶴見俊輔

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 03:37 UTC 版)

鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年大正11年〉6月25日 - 2015年平成27年〉7月20日)は、日本の哲学者評論家政治運動家大衆文化研究者。アメリカのプラグマティズムの日本への紹介者のひとりで、都留重人丸山眞男らとともに戦後の進歩的文化人を代表する1人とされる。


注釈

  1. ^ 麻布桜田町の後藤新平邸の敷地内の「南荘」と呼ばれていた建屋で[1]、地番は三軒家町53番地[2]
  2. ^ 石塚 (2010, p. 87)によると、命名者は、鶴見俊輔・長田弘『旅の話』によれば父、鶴見俊輔『私の地平線の上に』によれば母とされている。新藤 (1994, p. 12)は、命名者は父で、伊藤博文の幼名による、としている。
  3. ^ 同級生には後の文部大臣永井道雄、後の中央公論社社長の嶋中鵬二作家中井英夫など[要出典]がいた[8]
  4. ^ 母から「あなたは悪い子だ」と言われ続けた[11]
  5. ^ 石塚 (2010, pp. 181–182)では、鶴見『日常生活の思想』p.241からの引用として、大塚駅の売店からカルミンを盗んで村八分にされた、としている。
  6. ^ 府立高校尋常科で同期だった遠山一行は、鶴見と思しき同級生について「ある日突然―と私には見えた―中学の同級生が学校をやめてしまったことがあった。その男は頭がよく勉強もできたが、かなり変ったところがあって、たとえば試験の答案を、わざわざ40点とか50点とかに仕立て上げるために、正しい答えを消しゴムで消したりしておもしろがっていた。そして日ごろ反りの合わなかった教師をなぐって、学校をやめたのである。(中略)その男は戦後社会評論家として登場し、名をなした」[18]と回想している。
  7. ^ 将来を心配した父から、「もういい。土地を買ってやるから女性と一緒にそこに住んで、蜜蜂を飼って暮らせ。14歳の結婚は法律に違反するけど、自分は目をつぶる」と言われた[21]
  8. ^ 母・愛子は、大正時代には天理教を信じていたが、俊輔の不良化が原因で1936年にキリスト教に入信した[22]
  9. ^ 留学中、下宿で隣の部屋同士だった本城(のち東郷)文彦と親しくなった[32]
  10. ^ 父・祐輔は、シュレシンジャー・シニア教授に身元引受人になってもらい、鶴見をハーバード大学に入学させることを委嘱していた[35]
  11. ^ 父の友人だった前田多門が館長をしていた[37]
  12. ^ 送致の前に審問(hearing)が行なわれ、シュレシンジャー・シニア教授が弁護人となって陪審員3人の票決を受けたが、2対1で抑留が決まった[43]
  13. ^ 学士論文のテーマは、ウィリアム・ジェイムズのプラグマティズムについて[45]
  14. ^ ミード要塞に抑留中に、交換船に乗船するか尋ねられて、鶴見自身が帰国を決めた[51]。帰国を選んだ理由について鶴見は、日本は必ず負けるという確信を持っていたが、負けるときに負ける側にいたいというぼんやりとした考えからだった、としている[52]
  15. ^ 船中で乗り合わせた数学者角谷静夫と親しくなった[53]
  16. ^ 当時、胸に結核性カリエスの異常突起ができており、結核であることは医学的にはっきりしていたが、徴兵官の「親の金で敵国に行っていたやつなんて、叩き直して、日本国民にしなきゃいけないという情熱」によって合格になった、としている[54]
  17. ^ 慰安所の仕事を担当させられた、と述べている文献がある[60]
  18. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 (2006, pp. 473)では、同年5月まで勤務、としている。
  19. ^ この年、アメリカの教育視察団が来日し、京大に人文科学研究所があるのは贅沢であると声を上げた。これに対し桑原が人文研有用論を演説し、鶴見が通訳を行った。視察団は京大に関する限り批判点なし、として帰国した。演説のあった夜、鳥養利三郎総長から桑原に電話があり、自分は鶴見が助教授となることに反対したがこれを取り消すと告げた[73]
  20. ^ 日ソ協会(現・日本ユーラシア協会)によれば、「声なき声の会」のデモの指揮は日ソ協会が行っていた[81]
  21. ^ 鶴見は、のちの回想でも「確認しておこう、あのとき、国会の中にいたトップ、岸信介首相は、A級戦犯じゃないか」と語っている[82]
  22. ^ 展望』1965年10月号 吉本隆明「わたしたちが山田宗睦の著書や、この著書におおげさな推薦の辞をよせている市民民主主義者や進歩主義者の心情から理解できるのは、じぶんたちがゆるく結んでいる連帯の人的なつながりや党派的なつながりが崩壊するのではないか、孤立しつつあるのではないかという深い危機感をかれらが抱きはじめているということだけである。そして、かれらの党派を崩壊させるような言葉をマスコミのなかでふりまいているようにみえる文学者政治学者経済学者を告発しよういうわけだ。」

出典

  1. ^ 石塚 2010, pp. 78, 85, 89
  2. ^ 石塚 2010, pp. 78, 123
  3. ^ 石塚 (2010, pp. 87, 89)
  4. ^ 石塚 2010, p. 123.
  5. ^ 石塚 2010, pp. 132–133, 138–139.
  6. ^ 石塚 2010, p. 128.
  7. ^ 石塚 2010, p. 148.
  8. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, p. 26
  9. ^ 石塚 2010, pp. 177.
  10. ^ 石塚 2010, p. 176.
  11. ^ 宮川匡司 (2015年7月24日). “鶴見俊輔氏死去‐権威に寄らず立ち続け(評伝)”. 日本経済新聞夕刊: p. 15面 
  12. ^ 石塚 (2010, pp. 181–182)。鶴見『日常生活の思想』p.4からの引用として。
  13. ^ 新藤 (1994, pp. 44, 52)。鶴見『恩人』からの引用として、厳格な母親に反撥し、近所の中学生と組んで万引集団を結成、本屋から万引した本を別の本屋へ売りに行く、駅の売店から小物を盗むといった悪事を繰り返し、このためクラスでは除け者にされていた、としている(新藤 (1994, pp. 44, 52))。
  14. ^ 石塚 2010, pp. 185, 195.
  15. ^ 新藤 (1994, p. 58)
  16. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, p. 26.
  17. ^ 新藤 (1994, p. 75)。武蔵小山の古本屋で集めた莫大な数の性に関する文献を学校のロッカーに置いていたことが発覚したため入学後1年1学期で府立高校を退学になった(新藤 (1994, p. 75))。
  18. ^ 遠山一行「集団の行為」『遠山一行著作集』 4巻、新潮社、1987年、196頁。ISBN 4106447045 
  19. ^ 石塚 2010, pp. 195–196.
  20. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 26–27.
  21. ^ 石塚, pp. 195–196[要文献特定詳細情報]
  22. ^ 石塚 2010, p. 78,195
  23. ^ 石塚 2010, pp. 198, 199–200.
  24. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 194–195.
  25. ^ 石塚 2010, pp. 199, 200.
  26. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 195–196.
  27. ^ 石塚 2010, pp. 212, 214.
  28. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 27, 195–199, 415.
  29. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, p. 415.
  30. ^ 石塚 2010, pp. 199, 201–202.
  31. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, p. 196.
  32. ^ 石塚 2010, p. 205, 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, p. 81
  33. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 27, 41, 196–200, 289–290, 469.
  34. ^ 石塚 2010, p. 208.
  35. ^ 石塚 2010, p. 205,206,209, 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, p. 47,290
  36. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 27–28.
  37. ^ a b 鶴見, 加藤 & 黒川 (2006, pp. 32–33, 290–291)
  38. ^ 1,000人いる同級生の中の上位10%に入っていた(鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 27–28)
  39. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 27–28, 289–290.
  40. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, p. 290.
  41. ^ 太平洋戦争の開戦後に移民局で取調べを受けた際に、「自分は無政府主義者だから日本も米国も支持しない」と回答したため(鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 22, 43–44, 291–292)。開戦直後に在米の日本の外交官や政府関係者、報道関係者は米当局により軟禁されたが、米国東部にいた日本人留学生には逮捕者はほとんどいなかった(鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 22, 43–44, 269–270, 291)。
  42. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 (2006, pp. 22, 42, 292–296)
  43. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 46, 269, 294–295
  44. ^ 指導教官のラルフ・バートン・ペリー教授に依頼して書きかけの卒業論文を届けてもらって続きを執筆し、ニューヨークにいた姉・和子に送付してタイプしてもらい論文を仕上げた(鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 28, 47–48, 293–294)
  45. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 293
  46. ^ 3年の前期の成績は、学年全体約1,000人の上位5%に入っており、そのまま卒業すればスマ・クム・ラウディ(Summa Cum Laude)と呼ばれる成績だった(鶴見, 加藤 & 黒川 2006, p. 48)。
  47. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 28, 47–48, 102, 122, 293–294, 298, 314–135.
  48. ^ 石塚 (2010, p. 213)では、1941年の出来事として、FBIに抑留され裁判にかけられた、収容所で卒論を仕上げ、4年制大学を3年で卒業した、としている。
  49. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 14–15, 22, 298–301, 374.
  50. ^ 石塚 2010, p. 216.
  51. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 24, 298–299
  52. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 24–25
  53. ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 123–125, 326–327
  54. ^ a b 鶴見, 加藤 & 黒川 (2006, pp. 181–182, 374, 472)
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  115. ^ 別冊宝島編集部 編『「カルト」の正体。』宝島社〈宝島社文庫〉、2000年1月、390-391頁。ISBN 4796616853 当該部分の執筆は春木進。春木は取材のために会いたいという旨の手紙を送ったが、返事が来なかったことを記している。ヤマギシ会を否定することは、人生の晩年における自己批判につながるため、それを避けたいのではないかと春木は推測している。
  116. ^ 別冊宝島編集部 編『「救い」の正体。』宝島社〈宝島社SUGOI文庫〉、2008年7月、390-391頁。ISBN 978-4796665025 当該部分の執筆は春木。前掲書の改版。
  117. ^ 阿奈井文彦『ベ平連と脱走米兵』文藝春秋〈文春新書〉、200-09、12頁。ISBN 4166601261 
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  125. ^ 博士論文書誌データベースによる。


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