木原七郎とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 木原七郎の意味・解説 

木原七郎

(Shichirō Kihara から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/12 06:06 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
木原七郎

木原 七郎(きはら しちろう、1884年明治17年)1月25日[1]1951年昭和26年)12月24日[2])は、衆議院議員立憲民政党)、最後の官選広島市長ジャーナリスト

経歴

広島県安芸郡矢野村(現在の広島市安芸区)出身。1906年(明治39年)、早稲田大学政治経済科を卒業。芸備日日新聞社に入り、1919年大正8年)に副社長に就任し、1925年(大正14年)には社長の早速整爾の死に伴い後任の社長になった[2]。その他に日本鋼鎖株式会社取締役[3]、帝国通信社副社長[4]などを務めた。

広島県会議員を経て、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で3期務めた。

1945年(昭和20年)8月6日、原爆投下で広島市が壊滅し粟屋仙吉市長も被爆死すると、同年10月その後任として同市長に就任、最後の官選広島市長となった。復興審議会を発足させて委員長に元市長の藤田若水を起用するなど、戦災からの復興に尽力したが、1947年(昭和22年)に公職追放で退任した。退任後はかつて自分の元で助役を務め後任市長(初代公選市長)となった浜井信三を陰から支え続けた。

最晩年の1951年には旧軍港都転換法に基づく広島市への国有地無償払い下げを実現すべく、藤田とともに病身を押して上京し政府との折衝に当たった[5]が、その直後に死去した。

脚注

  1. ^ 衆議院『第五十八回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1930年、26頁。
  2. ^ a b 『政治家人名事典』
  3. ^ 『衆議院要覧』
  4. ^ 『人事興信録』
  5. ^ 浜井信三『原爆市長』(復刻版)シフトプロジェクト、2011年、p.169。

参考文献

  • 『衆議院要覧(乙)昭和十二年十一月』衆議院事務局、1937年。
  • 『人事興信録 第十二版(上)』人事興信所、1939年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「木原七郎」の関連用語

木原七郎のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



木原七郎のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの木原七郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS