PCLから東宝へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 12:56 UTC 版)
1933年(昭和8年)、この頃、アパート乃木坂倶楽部に住んでいた瀧口修造を知る 。木村荘十二、大村英之助とともに、独立プロ「音画芸術研究所」を設立。音画芸術研究所の『河向ふの青春』原作。『音楽喜劇 ほろよひ人生』(PCL)、『純情の都』(PCL)、『只野凡児 人生勉強』(PCL)、『続・只野凡児』(PCL)、『あるぷす大将』(PCL)の脚本。以後、PCL文芸課長から東宝文化映画課長となる。
※この「PCLから東宝へ」の解説は、「松崎啓次」の解説の一部です。
「PCLから東宝へ」を含む「松崎啓次」の記事については、「松崎啓次」の概要を参照ください。
PCLから東宝へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/19 04:49 UTC 版)
1918年、東京生まれ。 1936年、旧制中学卒業後、PCLに入社。 1946年、今井正監督『人生とんぼ返り』で撮影監督デビュー。 1947年、今井正・楠田清・関川秀雄監督のオムニバス『地下街二十四時間』(東宝)、今井正監督『春のめざめ』(東宝)の撮影。 1949年、小田基義監督『地獄の貴婦人』(東宝=松崎プロ)の撮影。 1950年、今井正監督『また逢う日まで』(東宝)を最後に東宝を追放される。
※この「PCLから東宝へ」の解説は、「中尾駿一郎」の解説の一部です。
「PCLから東宝へ」を含む「中尾駿一郎」の記事については、「中尾駿一郎」の概要を参照ください。
- PCLから東宝へのページへのリンク