KC42型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 08:56 UTC 版)
1959年12月 日産自動車では戦後初となるマイクロバスとして登場。B40型系ジュニア・C40型系キャブオールから流用したシャシとパワートレーンに、セミモノコック構造の車体を架装した。プリンス・ライトコーチにも似たメッキモールの装飾が特徴。生産は新日国工業・京都工場(現:オートワークス京都)。 ジュニア / キャブオール系シャシには、新日国京都工場製の「ニッコク」ボディーの「キャブオールマイクロバス」のほか、「新目黒車体」製ボディーの「ジュニアマイクロバス」も存在した。「新目黒車体」は、レントゲン車や宣伝車など特装車の車体架装を手がけていた東京都目黒区にあったコーチビルダー「目黒車体」が称したもの。生産台数はごく少なく、販売ルートも日産ディーラーではなく民生デイゼル系であった。販路の違いから、乗用車風の意匠が取り込まれることが多い他のマイクロバスのデザインとは一線を画しており、大型リアエンジンバスを模してそのまま縮小したようなスタイルが大きな特徴であった。リアウインドウは民生の指定架装メーカーであった富士重工業製に近づけるべく2枚窓となっており、その下(大型リアエンジンバスではエンジンルームに当たる位置)に観音開き扉の荷物室を持っていた。その後、乗降用扉の高さや客室窓とフロントウインドシールドの拡大、ヘッドランプ4灯化などの改良を受け、数年間キャブオールエコー、エコーと並行して生産、販売されたとみられる。
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