59年以降、政界引退まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 09:10 UTC 版)
「ルキウス・アンナエウス・セネカ」の記事における「59年以降、政界引退まで」の解説
59年3月、ネロは船の転覆を装って母アグリッピナの殺害を謀ったが、アグリッピナは危うく難を逃れた。ネロは未遂に終わったことを知ると、アグリッピナの反撃を恐れてセネカおよび当時プラエフェクトゥス・プラエトリオ(近衛長官)であったブッルスに相談した。セネカは「ローマ市民同士の戦争を避けるため」としてネロによるアグリッピナを殺害する計画をブッルスと共に了承。再度のネロ派による襲撃でアグリッピナは殺害された。なお、アグリッピナ殺害で不安定な精神状態に陥ったネロを立ち直らせるために、セネカはアグリッピナの罪業を書いた文書を作成したが、このことで世間の不評を買った。 アグリッピナの死後、ポッパエアが大きな権力を握るようになり(この頃までにポッパエアはオトと離婚)、ネロもオクタウィアと離婚してポッパエアと結婚する意志を明確にしたが、セネカはブッルスと共にこれに反対したため、計画は進展しなかった。 しかし、62年にセネカおよびネロへも大きな影響力を持っていたブッルスが突然急死、ブッルスの後任のプラエフェクトゥス・プラエトリオとなったガイウス・オフォニウス・ティゲッリヌスはポッパエアと近く、プラエトリアニを抑える力も持っていた。セネカはブッルスの死によって影響力を削がれることとなり、オクタウィアとネロの離婚、そして6月のオクタウィアの処刑を阻止できなかった。 この時期、セネカも横領の罪で告発された。セネカはこれを機に、ローマ帝国から得た財産の全てをネロへ返還し、今後は研究のために生涯を捧げたい旨をネロに伝えた。これに対してネロは引き続きアドバイザー的な役割として関与するようセネカに要請し、実際に64年にカンパニアへネロが赴いた際は同行したが、政治の一線からは退くこととなった。
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