4大大会初優勝から全盛期へ
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「イワン・レンドル」の記事における「4大大会初優勝から全盛期へ」の解説
1984年、全仏オープンでレンドルはついに宿願の4大大会初優勝を達成する。決勝では、この年絶好調で年初から連勝を続けていたジョン・マッケンローを3-6, 2-6, 6-4, 7-5, 7-5 と2セット・ダウン(先に相手に2セットを取られた状態)からの大逆転で破り、マッケンローの年初からの連勝記録を42で止めた。また、マッケンローはこの年わずか3敗しかしなかったが、そのうちの最初の1敗をレンドルがつけたことになる。しかし3年連続の決勝進出を果たした同年の全米オープンではマッケンローに完敗しており、3年連続の準優勝に終わった。翌1985年は、連覇を狙った全仏オープンこそ決勝でビランデルに敗れ準優勝に終わったが、全米オープンでは決勝でマッケンローを破って前年の雪辱を果たすと同時に、4年連続の決勝進出でようやく全米オープン初優勝を果たした。 1986年は全仏オープンで3年連続の決勝進出を果たし、決勝でミカエル・ペルンフォルスを破り2年ぶり2度目の優勝を果たした。この年はウィンブルドンでも初の決勝進出を果たしたが、当時18歳のボリス・ベッカーに完敗し、連覇を許している。全米では5年連続の決勝進出。ミロスラフ・メチージュを下して連覇を果たした。この年は大会開催時期の変更の過渡期であった全豪が開催されなかったため、レンドルは変則的ながらも年間グランドスラム全大会決勝進出を果たした。翌1987年も全仏と全米で優勝。いずれも決勝でビランデルを下しての栄冠であった。ウィンブルドンでも2年連続の決勝進出を果たしたが、オーストラリアのパット・キャッシュに敗れて、2年連続の準優勝に終わった。キャッシュにはこの年から開催が1月に戻った全豪でも準決勝で敗れている。このときは、レンドルにとってウィンブルドン優勝の最大のチャンスと呼ばれていたが、悲願はかなわなかった。その後も、全仏を欠場してまでウィンブルドンに照準を合わせる、当時自分専用の芝生コートを作るなどの努力をしたものの、4大大会のうちウィンブルドンのタイトルを手にすることはできなかった。なお、レンドルは1985年の全米から1988年の全豪まで10大会連続(※1985年の全豪は12月開催であるため、9大会連続ではなく10大会連続となる)でのグランドスラム準決勝進出を果たしている。これは現在ではフェデラーに次ぐ歴代2位の大記録である。また、1985年~1987年にかけてザ・マスターズ 現:ATPワールドツアー・ファイナルにおいて3連覇を達成している。
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