3回目の侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 08:27 UTC 版)
清国は乾隆帝の義理の息子である明瑞(英語版)を将軍とし、1767年再びミャンマーに攻め込んだ、清国軍はまず囮の部隊をバーモに送り出し敵の注意をひきつけ、清国軍主力ははセンウィとシパウというシャン族の土地を占領し、センウィと雲南の間に兵站を築き、アヴァに主力を送り込んだ。シンビューシンはバーモの囮部隊に引っかかり、最強の部隊をバーモに派遣してしまった。アヴァ方面に清軍の主力が迫っていると聞いたシンビューシンは第一別働部隊を清軍の主力に立ち向かわせ、第二別同部隊を清軍の背後に回らせ補給路を分断させようとした。だが清国軍主力とぶつかった部隊は敗北して総崩れになってしまい、補給路を攻撃した部隊も清軍に阻まれて後退した。清国主力軍はアヴァ北のシングーを占領した、シンビューシンは第三別同部隊をシングー奪還のために新たな派遣軍を送り、シングー前面に布陣させた。この間、センウィの近郊では、第二別同部隊が清軍と再戦して勝利をおさめ、清国軍の補給路を分断し、さらにセンウィを奪還する事に成功した。補給路を分断された事を知った清軍主力はシングーから撤退を開始したが、まずシングー前面に展開していたミャンマー軍の追撃を受け、さらにセンウィを奪還したミャンマー軍からも攻撃を受けた。清軍主力はバーモの囮部隊に援護を要請したが、この囮部隊はカウントン攻撃に失敗し、すでに敗退してしまっていた。こうして清国軍はシングーとセンウィのミャンマー軍から挟撃を受け、さらにカウントンから出撃してきたミャンマー軍からも追い打ちをかけられ、またしてもほぼ全滅に近い損害を受けた。将軍の明瑞はなんとか雲南まで逃げ切ったが、敗戦を恥じて自害してしまった。
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