1993年~ 歴史的大敗の時代
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「ラグビー日本代表」の記事における「1993年~ 歴史的大敗の時代」の解説
ワールドカップ1995に向けた準備 ワールドカップ終了後、宿澤は退任。後任には、新日鐵釜石時代、監督として日本選手権で3度の優勝に導いた小藪修が就任することになった。 小藪はチームコンセプトとして、大会直前にルーマニアに快勝した戦略「タテ・タテ・ヨコ」(ボールが出てから、フォワードが前への突進を連続して行い距離をかせいだ後、バックスへ展開しトライのチャンスを得る)というパワーラグビーを志向した。しかし、レベルが総体的に落ちるアジア諸国相手であれば通用したが速度が伴わず、北・南両半球の強豪相手には通用しなかった。とりわけ、1993年のウェールズ遠征では、同国代表はもとより、予備軍である同国Aチームにも惨敗を喫し、小藪解任論まで噴出した。 そのため、タテ・タテ・ヨコの戦略の修正を迫られ、フィジーに国内でのテストマッチで連勝。1994年のアジア選手権決勝で韓国を破り、3大会連続のワールドカップ出場権を得た。
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